生きがいのある人生

                                               万代恒雄

 聖書のおことばを送ります。
詩篇119篇27節「あなたの戒めの道を私に悟らせてください。私があなたの奇しいわざに思いを潜めることができるようにしてください。」

 思いを潜めるというのは、息を潜めてじっと待つという意味だと解釈してください。すると、この詩篇のおことばの後半の部分は、“私があなたの奇しいわざを、息を潜めてじっと待つことができるようにしてください。”と言い換えることができます。神様のなさる素晴らしいわざのために息を潜めて、期待して待つとは素晴らしいことだと思いませんか。子どもの頃、サーカスを見にいったことを思い出します。あの空中ブランコやオートバイの曲芸を、息をするのも怖いような気持ちで、固唾を呑んで見守っていました。一体次にはどんなことをするのだろうという期待がそこにはあったのです。

 そんな子どもの時の経験は別にして、人生で何か他にもそのような経験ができるという風にあなたは考えられますか。人生をもう半ば過ぎているような方は、今日も退屈なお勤めが始まるというような気持ちで、満員電車に揺られ、或いは、マイカーに乗ってイライラしながら会社に出かけて行く。今日も昨日と同じく、気だるく疲れるだけの仕事が待っているというだけのことではないでしょうか。子どもの時に、期待に胸を躍らせながら、目を見張ったような経験は、少年時代の単なる思い出に過ぎなくなってしまっているのではないでしょうか。

しかし、私は、そんな風には思いたくないし、また、そんな風に生活をしていません。自分の歳も忘れて、喜びに満ち溢れ、期待感に溢れた生活をしています。それはなぜでしょうか。それは、イエス・キリストを信じる信仰が、私の中に生きているからに違いないのです。

私たちが歳をとることは仕方のないことです。私も世の中的に言うと、定年退職の年代に近づいていますが、信仰をもっていない昔の友人に出会って、自分とのギャップの大きさに驚いています。私はやることがあって、やりたいことがたくさんあって、それが必ずできるのだという確信に満たされて、息を潜めて今日か明日かという期待感を日々抱いています。どんなに歳をとっても生きがいが溢れていて、定年退職後は庭で盆栽いじりをして、ちょっとアルバイトを見つけて、というような守りの姿勢にはなっていないのです。

では、なぜ、神に対する信仰をもつと生きがいのある人生が生まれてくるのでしょうか。それは信仰があなたのすべてを変えてしまう力だからです。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」(第二コリント5・17)というみことばがあります。イエス・キリストを信じるときに、その人は新しく生まれ変わるのだと聖書は語っています。新しい生まれ変わり、新しい人生が始まるのです。それを文字通り、生活の中に経験させてくれるのがイエス・キリストを信じる信仰であると聖書は教えているし、また、具体的に経験させていただいけるのです。

 あなたの過去の失敗や罪や惨めな思いを、イエス・キリストの前に告白して、赦していただき、新しいいのちのある人生を与えてくださいという祈りがあなたの中に起これば、あなたは大きな救いの望みを持つことができ、どんなに歳をとっても、生きがいのある人生を過ごすことができます。

 イエス・キリストを信じてください。

(放送メッセージより)