主を求めよう
万代恒雄
聖書を開きましょう。
旧約聖書詩篇101篇2節です。
「私は、全き道に心を留めます。いつ、あなたは私のところに来てくださいますか。…」
この詩篇の作者ダビデが祈っています。
この願いは、神を信じるすべての者が経験するものではないでしょうか。病床にあって、病のために苦しんでいるときに、神の力によって癒されることを求めている時に、神様、いつ私のところに来てくださいますかと、こんな切実な願いが起こってきても不思議ではありません。本当に、イエス・キリストの恵みをいただきたいと思う時に、私はこのような切実さが必要ではないかと思うのです。困ったときの神頼みといったような感覚で、神様にはただ困ったときに祈ればよいではないかと、そんな考えで生活しているとするならば、それは、まことの救いに結び付くものと思えません。
あなたの持っている問題の大きさを意識する必要はないのです。旧約聖書に出てくるアサ王は、「力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたにあっては変わりがありません。」(Ⅱ歴代誌14・11)と、神様に祈りました。ですから、神様は、私たちのもっている問題如何で特別にお聞きになるようなことなど全くありません。私達の心が、どこまで切実であり真実であるかということが問われているのではないかと思います。あなたも神様の前に、いろんな問題を抱えて、「いつ私のところに助けに来てくださいますか」と言えるような信仰をお持ちでしょうか。
別にこの事は、10年も20年も年月を経たクリスチャンでなければならない事を意味しているようには思いません。人生は、長いから尊いとか、若いから、あるいは早く死んだら駄目だというものではありません。その内容が大事なのです。
信仰の歴史も長い短いではなく、その真剣さが大切です。一生懸命、真剣に神を求めて、切実さゆえに、神様に「ひとつ私を助けに来てくださいませんか」と叫ぶような気持ち、この気持ちに対して神の応答があると信じるのです。ですから、あの人は教会に来られてまだ1、2ケ月だと言って、決してその方の信仰が弱いということにはならないのです。信仰の年月は短くとも、実に深い強い真剣な信仰をお持ちであると、しみじみと感じさせられる場合が多いのです。あなたが今かかえている問題は、解決されるのです。信仰の力によって解決されないようなものはひとつもないのです。ただ、あなたの心が本当に直線的に神に向けられているかどうか、それが問題ではないかと思います。
あちらを向いたり、こちらを向いたり、くねくね曲がって信じているというのではなくて、イエス・キリストに対してまっすぐな信仰を持つ、そういう信仰をあなたがもっているならば、神の恵みはあなたにたちどころに現われるでしょう。
「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも変わることがない」(ヘブル13・8口語訳)のです。イエス様は、あなたに対して真実です。
今、あなたが真剣な心で、イエス・キリストを求めるならば、神はあなたを助けてくださいます。
「いつ、私の所に来てくださいますか。」この祈りをイエス・キリストにささげましょう。
(放送メッセージより)