勝利ある人生

   万代恒雄

 聖書は、詩篇65篇11節を開きます。

「あなたは、その年に、御恵みの冠をかぶらせ、あなたの通られた跡にはあぶらがしたたっています。」

 新しい年が始まったと思ったら、もう一か月。私達の歩みも、一つのレールの上を走る車のように、定められているかのような感じがしてきます。しかし、この新しい一年の、これから残された多くの日々が、本当に豊かに恵まれたものであるかどうか、あるいは良いことがあったり悪い事があったり、波乱万丈の波の高い海のような感じの一年であるか、私達にははっきりつかめないところがあるのではないでしょうか。

 聖書にある神の約束を見る時に、このみことばのように、神はその年に、私達のための恵みの冠をかぶらせてくださいます。我々の歩いた跡には、豊かなあぶらがしたたっている。こんな約束を神からいただけるということは素晴らしいことです。つまり、この年を祝福のある年と信じて受け止めて歩んでゆくのか、どんなふうになるかわからないと思いながら不安な気持ちで送るのか、あるいは、どうせ良いことなんかありはしないと思って日々を歩んでゆくかは、人それぞれです。

 しかし、私達が、どのような気持ち、あるいは感覚でこの年の日々を乗り越えてゆくかということは非常に大事なことなのです。勿論一年が終わってしまえば、よかったか悪かったか、悲喜こもごもが当然わかってくるのですが。何も起こっていない時に、将来を目の前におきながら、これは大丈夫だと感じて生きている人と、駄目だと思って生きる人と、いろいろあるわと思って生きる人と、みな違ってくると思います。つまり私達は、祝福にしても不幸にしても、前取りしていると私は考えています。

 自分にはよいことは起こりはしないと思っている人の人生に、良いことが起こらないのは当たり前で、それはその人の思った通りになっているのです。

 自分はついているなあ、恵まれている、素晴らしいことが起こる、というように感じ、またそう思っている人の前には、やはりよいことが起こってくるものです。

 それを単なるくじを引いて大吉が出たからだとか、手相を見てもらってよい運命が開けるとか、そういうようなことで感じるのと、聖書の中にははっきり記されていることばによる約束を信じて、「神様が約束されているのだから、私は非常に祝福された者、だから残された日々、つまり人生は素晴らしいものなのだ」と信じて生きるのとは大変な違いだと思います。

二千年来変わることのない神のことばを信じて、その約束に立って生きようではありませんかと私がお勧めする理由は、そういう神様の約束というのは、私達の単なる感覚とは全然別の次元だからです。

 私自身、素晴らしいことが次々と起こると信じて今日まで何十年、悪いことはひとつもなかったと思います。苦しいと思ったことはありましたが、乗り越えてきました。そして、その都度勝利に変わりました。

 あなたも、信仰によって祝福を前取りするような勝利のある人生を送ってください。

(放送メッセージより)