人生を磨こう

万代恒雄

 まず聖書を開きましょう。

詩篇147篇6節です。

「主は心の貧しい者をささえ、悪者を地面に引き降ろす。」

私達は、日常生活において、表現できないような矛盾というものを、心の中に感じることがあります。正しくないこと、そして理屈にあわないことが大手を振って、社会にまかり通っているような気持ちになることがあるものですが、いかがでしょうか。ただ信仰をもって、正しく清くと思いつつ生きることは、ばからしいと感じる人が多くいることも事実なのです。悪い世の中だから、聖書を信じて、きれいな心だけではいけないと言う人もいないわけではありません。

この世の中を見ていて、そこには平等の法則が働いているように私には思えます。若い時にとても幸せな生活をしていた人が今不幸になっているかと思えば、寂しい惨めな少年時代を過ごしたけれど、今は豊かで平安に過ごしておられる人もいます。神様はただひとりの人だけを偏って祝福されるということはありません。健康も、財産も貧乏も、権力も教育も、全ての人の上に与えられるものです。勿論、その人その人による個人的な努力も、神様は尊んでくださいます。

神様は、心の貧しい者、すなわち自分自身を、こんな自分では駄目だ、常に神を求めなければならないと、自分に欠乏を感じ、向上する心を持っている人を、神は絶対放っておくはずがないということを知っています。

心が高ぶって、つまり心が貧しくなくて、神様をいい加減な気持ちで取り扱い、神様に対して侮りのことばさえ吐き、自分が特別に偉い者であるごとくに考えて生きている人たちがいます。しかし、どんな人にも同じように、この世の終わりが来るのだということを知ってください。聖書には、人は一度死ぬことと、死んだ後、神の前に裁きを受けることは、人に対して決められたことだとも言われています。

私は牧師ですから、亡くなった方々のお葬式をしますが、人々は、葬式に来て死ぬということに実感を持つのです。

ある人の葬式が、友引という日であったため、縁起が悪いということで葬式が次の日に延びたと聞きました。つまり死を恐れているわけです。なぜかというと、死に対する準備ができていないからです。それはどういうことかと言うと、この世の収支決算が、この世だけではなくて、来世においても必ずなされるということです。つまり、神は、悪しき者を罰し、正しき者に祝福を与えてくださるのだということを、信仰を持っている、いないに関わらず、人は心の中に感じているのです。ですから、神を信じて、神を求める向上心を持って、絶えず自己反省の中に自分をおいて、少しでも自分を磨こうとする生活をしたいと思いませんか。キリストを信じる信仰生活は素晴らしいものです。あなたもキリストを信じる者になって、自分の人生を磨いてください。

(放送メッセージより)