神に近づく者
万代恒雄
聖書を開きます。
詩篇119篇34節です。
「私に悟りを与えてください。私はあなたのみおしえを守り、心を尽くしてそれを守ります。」
悟りを与えてください、とは、神様にお祈りする言葉です。人はよく「私は悟った」とか、「真理を悟った」と言うようなことを、よく会話で言うことがあったり、また人が言っていることを聞くことがあったりするのですが、自分の知恵で、自分が賢くなって悟りを開くという考え方は、本当は正しくないと思います。それほど、私達は、修養しているわけでもないし、修行を続けているのでもありません。悟りを開くということは、どれほど難しいことかということは、誰もが知っています。しかし、素直な心になってまことの神様の前で、天地万物を造られたまことの神様に向かって、悟りを与えてくださいと祈れることは素直なことだと思いませんか。そう祈れるということはつまり、自分は悟りのない罪の多い人間だと認めていることです。私達は、自己認識を確立する、つまり自分がどんな者であるかということ、その弱さを悟るものでなければなりません。自分の惨めさ、自分の中の罪、自分の至らないこと、等々を神の前に認めるということ、それが本当の悟りです。それによって神様からの、大きな人生に対する悟りを、今度は神様から与えていただくことができるのです。
神様に、「悟りを与えてください。」と祈ることは、何か自分のプライドが許さないというような愚かな感覚をもってはならないと思うのです。自分の手や思いで造り上げたもろもろの偶像、自分がどうにでもできるような、いわゆるそういう神々のように扱っているものから、悟りを得ようと思う必要などなくてよいのです。あなたが、そのものを支配しているとさえ考えることができるからです。
我々が与えられなければならない悟りは、私たちより遥かに超えた大いなるお方からいただかないと全く意味がないではありませんか。
進学塾で勉強している子供たちも同じです。先生が自分より優れていなければ、その教師に学ぶ必要は全くないわけですから。我々は、教えていただこうとするその相手が偉大であればあるほど、私たちが得ることのできる恵みも、大きいと言うことであります。ですから、自分は駄目だ、つまり、聖書で言う罪ということを本当に知って、神様の前に、「神様、あなたの悟りを教えてください。」というような謙虚な祈りから、神様からの恵みはスタートすることができるでしょう。ですから、そういう気持ちに、あなたがなられることが大事です。
自分のつまらないこと、自分が駄目なこと、惨めなこと、弱いこと、それらを認めるのは辛いことかも知れませんが、それを認めることができるのが、本当に自分に対する自分の本質を知る、つまり悟るということではないでしょうか。
そういうことのできた人が、神様の前に、「神様、あなたの大きな悟りをください。」と、祈る時にこそ、それは神様の恵みによって与えられることでしょう。時間がかかるものではありません。
どうぞこの日、神様の悟りをくださいと共に祈る者でありましょう。
(放送メッセージより)