神の導き

万代恒雄

 聖書を開きましょう。
詩篇61篇2節です。

「私の心が衰え果てるとき、私は地の果てから、あなたに呼ばわります。どうか、私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください。」

聖書は何と素晴らしい表現をすることでしょう。あなたは、こういう経験をされたことはありませんか。強気で健康、怖いものなしというような時も人生にはあるでしょう。しかしながら、年齢の如何を問わず心が衰え果てるときもあるのではないかと思うのです。心がズタズタに裂かれて、メチャクチャになる、そんな時あなたはどうされますか。ある人はそんな時を「スランプ」と表現して、旅に出るとか、ごろ寝をするとか、ぼんやり何かを食べながらテレビを見るとか本を読む、あるいは自分の体をがむしゃらに痛めつけるとか、そこから抜け出すためにいろんな方法を考えるようです。でも、その程度のことで抜け出せるものなら、これは気分転換すればよいだけで、大した事はないのです。

しかし、実際に、本当に心が衰えてしまうような時もあるのです。そういう時に、あなたに必要なのはイエス・キリストを信じる信仰であると私はお伝えしたいのです。

あなたは、人間的な範囲において、自分のいろいろな問題を解決しようと計っているでしょう。それは、ごく当然のことでしょう。しかしながら、本当は、あなたの力を越えた世界、つまり神の世界の中に、あなたが自分ではどうしようもないような心の衰えを感じた時に、それを建て直す力が秘められていることを知って欲しいのです。

イエス・キリストは、昨日も今日も変わらないで、あなたを助けてくださるお方です。この驚くべき力はたったひとつの条件のもとにのみ、私達の内に働くことができるのです。それは私達の心が正しい時です。正しいというと何か品行方正のように感じますが、聖書が言う正しさというのはそういう意味ではなく、心が神に向けられていることを言います。なぜなら、神が命をあなたに与えてくださっているのですから、神に対して信仰をしっかりもって、神を見上げて前進して行く事がないならば、あなたは、神の御前に思い上がっていると言わなければなりません。そういう意味において、自分の心を本当に砕いて、謙遜な気持ちになって、神様の御前に出て行く人に、神は力を現してくださるのです。ですから、聖書はそのために「悔い改めてイエスを信じなさい」と表現しているのです。

「主は、わがとりでとなり、わが神は、わが避け所の岩となられました。」(詩篇94・22)

自己中心な生活をおわびして、回れ右をし、今日からは神の目の届く範囲の中で、神の力の下で自分達の生活を整えたいと祈り、御言葉を読んで教会生活をしているというのがクリスチャンです。そういうクリスチャン生活をしているときに、心が衰え果てるようなことがあっても、決して失望することはありません。神があなたを助け、引き上げてくださり、驚くほど高い岩に登らせてくださって栄光を見せてくださるのです。

神の御力があることを心から感謝しましょう。

(放送メッセージより)