神に信頼する
                                          万代恒雄

 まず聖書を開きましょう。
 詩篇62篇8節です。
「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。」
 この「どんな時にも」ということばの中に深い意味があるわけです。「困った時の神頼み」と、よく私達は聞きます。こういうのは、聖書に啓示されている、神に対する本当の信仰のあり方ではありません。又は何か危害があったり、困ったことがあると願いをかけたりする。こういうような意味で信仰をもつものではありません。
 人生には、良い時もあれば悪い時もあるものです。逆風もあれば、順風の時もあるものです。これが人生です。生きている証です。何も起こらないようにと都合の良いことを考えている人もおられるでしょうが、そんなのは、日の当たらない台所の隅で何かを植えているようなもので、ひょろひょろと少しは伸びても、きれいな植物にはならないものです。でもいったん太陽の光を浴びたとたんに、色づいてくるのです。
 人生というのは、色々な問題に出合ってこそはじめて人生だと言うのは皮肉な言い方かも知れませんが、でもそうして勝利していく力を信仰によって与えられていくことを私たちは喜んでいます。ですから「民よ。どんなときにも神に信頼せよ。」と言われます。あなたが、困った時の神頼みで信仰を持つのではなくて、いつでも神に対する信頼を失ってほしくないのです。本当の信仰とは、どんな時にも、神に信頼するということが基本になっています。私たちは神を信じるときに、何か理由がないといけないというように考える人が多くいるのを見て驚いてしまいます。そして、自分は神を信じる必要がない、なんてことを言うのです。果たして神を信じる必要のない時って人間にあるでしょうか。突然病気になることも、よくあるではありませんか。突然不幸なことに見舞われることもあります。「転ばぬ先に杖」という言葉もありますが、私たちは、神を信じないでいい時なんてものは絶対にないのです。どんな時でも神を信頼しておかなければなりません。これは私たちの信仰の基本的なあり方なのです。何故どんな時にも神に信頼せよという言葉が私たちにひっかかるのかと言いますと、それは私達が良い時と悪いときで変化するからです。だから機嫌の良い時悪い時があるのと同じように、神に対しても同様の姿勢をたどってしまう傾向があるのです。
 でも、絶対者である神に対する信仰の持ち方というのは、私たちの都合によって決めるべきではないのです。
 私たちは、基本的には、自分の心は汚くて、その中には良いものがないことは誰も知っているでしょう。良い行いをするのも、衣食足って礼節を知るといった具合で、食べるものに事欠いたら行動だって荒々しくなってしまうのが人間でしょう。しかし、私達が良くても悪くても、心の中に汚い罪を持っていることは事実ですから、神に対して信仰を持って祈り、自分の魂を清めていただく、悔い改めて救われる。ここからキリスト信仰は始まります。
 そういう信仰をあなたがお持ちになるならば、たとえ悪い時があっても驚くことはありません。良い時には、更に感謝が増し加わってくるでしょう。
 自分の汚い心や思い、自分勝手な生活、こうした生活の中から、神が共にいてくださるという、はっきりした確信を持った生活をしようではありませんか。
 聖書を1ページでも日々開き、そういう生活をキリストの中に求めて行くなら、神が共にいてくださるという思いは、あなたの全生涯を支配することでしょう。その時に、今まで堂々とやっていた悪しきことが行えなくなることでしょう。そこには、絶対的なきよいお方があなたを守り、導いてくださっているのを感じるようになります。
 イエス・キリスト、すなわち「神共にいます」この信仰の中にこそ、私たちの喜びと平安と導きがあると信じるのです。
                                                  (放送メッセージより)