聖霊による伝道
                           草加神召教会主任牧師 天野弘昌

■聖書箇所
使徒十二章一節から一八節

■聖霊の働きは人々を「驚きあきれ」させる
ペンテコステ派では聖霊のバプテスマは「異言」とよく言います。
あらゆる言語が、彼らの口からほとばしり出たということです。エルサレムにはあらゆるところから集まっていて、自分の言葉を知らない彼らが語っていることにほんとに驚いたのであります。
この驚きという言葉が、三つも使われているのです。最初は「驚きあきれてしまった」とあります、次のところは「驚き怪しんで言った」とあります、そして「驚き惑って」とあります。
聖霊に満たされて異言がほとばしり出てくると多くの人々は、私達をどのように見るかということです。一般的なクリスチャンの中でも異言の経験がなければ、異言を語っている人を見ると、あとずさりするような気持ち悪さってありませんでしょうか。
実は私自身がちょうど高校三年生の時に、その現場に出くわしてもう二度と教会に行くまいと決意したことがあります。
聖霊の力を受けると、人生が変わりますよと言われて期待していきました。そうすると五、六人の若い兄弟が一生懸命お祈りしていて、ある兄弟に聖霊が降り注いだのです。私は現場を見ていました。大学生に聖霊が下った時に、ほぼエクソシスト状態でした。のたうち回る気持ち悪い状態になって、私は、教会は怪しいところだと、教会を離れてしまったのです。日本のキリスト教会の中でもこの聖霊の働きに対して同様に思っている人も少なくないのです。聖霊を受けると周りの人が驚き怪しむような人智を超えた神様の一方的な現れが半端ではないのです。
彼らは「甘いぶどう酒に酔っている」と言われたのです。「甘いぶどう酒」というのは、発酵中の新しいぶどう酒と書かれています。ものすごく発酵力があるのだと思うのです。
アルゼンチンとか、カナダとか聖霊の働きが顕著な場所で、私自身が完全に聖霊にご支配される、自分自身がもう自分自身ではない、もはや私が生きるのではなくキリストが私のうちに生きるなりという聖霊の圧倒的な充満といいますか、流出といいますか、聖霊の爆発というような経験をしました。
その時に、人間の執着心を持つようなものが剥がれて、聖霊ご自身とまったく一つになったという経験をしました。すると泉のように湧き出る霊的な祝福がこんなにもすごい、神の国は義と平和と、聖霊による喜びって、このことなのだと体験したのでした。
大学生になった頃、私は教会から離れていましたが、教会のキャンプに誘われて行きました。
二日目の晩、聖霊を求める集まりがありました。みんながよってたかって私に手を置いて「天野を変えてください」とお祈りするのです。そして大御所の先生が私の顔を鷲掴みにしてお祈りしてくれました。
最初いやいやでしたが、聖霊のバプテスマを求める祈りに、私にはじめて異言が出ました。異言が出ると、私は自分でも不思議に思うくらい変わり、聖書の真理が光に照らされたようになり、全部が神の言葉だとしっかりと受け止められるようになり、そして多くの友人たちに福音宣教をする、そのような力が与えられたのです。
聖霊が、私達の生活の中に、あるいは教会の中に、豊かに臨在されるか否かがクリスチャンライフをあるいは宣教の働きをある意味では決定づけるのです。

1.臨在と油注ぎ
■神の臨在の場所は?
 教会に、そしてみなさんに聖霊の圧倒的な油注ぎと臨在が、いかにあるかということが重要です。
 第二歴代誌七章の記事を、ご一緒に読みたいと思います。
ソロモンは神殿を奉献する時に、神様の声として「私の目と私の耳はいつもそこにある」と言われ、臨在が豊かに神殿の中に現われました。
 神の臨在というのは旧約聖書からずっと見ていくと、創世記のアダムとイブのところに神様はいらっしゃいましたが、彼らの罪ゆえに私達人類の祖先はそこから出されてしまって、だんだんと神様の臨在、神様の住所が移されてまいります。
幕屋の至聖所の中の神の契約の箱や雲の柱・火の柱のところに、神の臨在が現された場合もあります。神様の臨在が、どれほど私達の人生や生活に大事かということは、旧約をずっと一貫して言えることであります。
新約の時代となりますと、神様の臨在イコールイエス様でありますから、イエス様がいるところに多くの大群衆が詰め寄りました。イエス様は神の臨在そのものだからです。
しかしイエス様が昇天した後に、聖霊が降臨したときに、聖霊ご自身のいらっしゃるところが実は神殿であり神の素晴らしい宮なのです。
では今の神様の住所はどこか。それは、あなたのただ中。あなたの内を神殿として選んだというのです。私達自身が、神の臨在の場所だということを、自覚している方はどのくらいいらっしゃいますか。
自信を持って主が本当に住んでおられる、内住のキリストはここにおられると言えるぐらい、神様と一つになる。神様ご自身とラブラブの一つ関係となりましょう。聖霊に満たされると私達の内側は本当に変わってきます。

■伝道は楽しい
私は、今の教会の開拓を始めたのが二十五年前の話です。
その中に面白いことがありました。聖霊の臨在を求めて祈っていた時に、ある男の子が金魚鉢を持ってきて「金魚が死んだ」と言うのです。私は昔から生き物が大好きであらゆる生き物を飼ってきたので、だいたい飼育がわかります。金魚はしばしば仮死状態になるので、尾っぽを持って振ると生き返るのです。そこで、私は金魚の尾っぽを持って振りました。しかし、生き返らない。完全数だからと思って、七回振りました。しかし、七度目にやったときにも金魚は死んでいるのです。
その時、私の内側に聖霊様の声が聞こえました。「あなたは何をしているのか」(笑)
私は、イエスさまのお名前を知っているのに、尾っぽをもって振っている。なんと愚かな。
「金魚よ、イエスの御名によって生き返ろ!」と祈りました。すると、金魚が生き返ったのであります。
このように開拓伝道はとっても楽しいものでした。神様が一緒に働いているのです。
伝道は楽しいのです。なぜ伝道が楽しくないかというと、臨在とか油注ぎが弱いので、無理矢理に一生懸命、潤滑油が充分ない機械のようにギシギシして、ときどき壊れてしまうからです。
開拓三年目に、ある方が、娘がいなくなったと相談に来ました。再婚した新しいお母さんと合わなくって家出したそうです。そこで、イエス様のお名前によってお祈りしました。
すると、駅で娘さんとばったりあって、ホームの上で抱き合ったのでした。お父さんから、涙涙で電話がかかってきて、未信者でしたが救われました。
聖霊に満たされ、本当に臨在と油注ぎの中で、福音宣教をされて生きますと、偉大な神の栄光が現されていくという世界があります。私の教会は、今も熱心に伝道し48の教会ができました。

2.内住のキリスト
内住のキリストは単なる力ではありません。聖書の中には真理の御霊と書いてありますし、あなたがたと共に住み、内におられるからですと書かれています。
さらにヨハネ一四の一六には「助け主」と書かれていますし、一七節には「聖霊ご自身は私達にすべてのことを教え、全てのことを思い起こさせてくださる方」とも書かれているのであります。
聖霊と一緒に歩むということは、主の知恵と主の啓示の御霊が、注がれていますから、私がどうやって進めていったらいいのか、問題をどう解決していったらいいのか、全部聖霊ご自身が知っておられるので、その方に聞くならば働きが前進していき問題が解決していくのです。

■聖霊が与えてくださる知恵や啓示
うちの教会のビジネスマンの方は、ほんとうに主の知恵をいただいています。ある建築会社の方が、ビジネス最初の頃、先生祈ってくださいと言ってこられた時に、私に聖霊ご自身が言ったのは「北」という言葉でした。すると北の方にその働きを進めていったら、どんどん契約が結ばれて、そして豊かな収益が上がったのです。私達の主はなんでも知っておられて、なんでも導いておられます。
ある日、女性の信者の方が「主人が今度洗礼を受ける」と言ったんです。その時に私はなんか感じるものがあって、聖霊様に聞きました。すると聖霊ご自身が「不倫」という言葉を与えられました。驚いてご主人と二人で直接話をして、「奥様を裏切っておられますか?」と聞きました。
その方は驚いて崩れ落ちたのでございます。聖霊は知っておられるのです。神は侮られる方ではないのです。
聖霊ご自身と一緒に歩むということは、聖霊はきよい方であるから、きよめられてほんとに罪が赦された、汚れのないシミのない状態へといつも心がける必要はあるのではないかと思うのであります。

■病と神の取扱
皆さん一人ひとりが、内住のキリストがここにいらっしゃるということを自覚しますと、いろんな場合において取り扱いを受けます。
私は、十年前にイエス様に真剣に祈ったことがあります。それはお医者様から大変な告知を受けたからでした。私は「多発性骨髄腫」という病気に侵され余命半年という診断を受けました。まだ40代でした。私はリバイバルを幻で見たのです。北海道の札幌ドームから九州の福岡のYahooドームまでみんな満員御礼で、主の御名によって集まっているという幻が目に焼き付いていて、なんでその幻を見せてくださっていながら、私の命を取るんですかと怒り心頭でございました。
私は一生懸命断食をしながらお祈りしました。すると主の細き御声を聞いたのです。「あなたは自分の命のためにそんなに祈るのか」という。「あなたは魂の救霊のためにそんなに祈ったことがあるのか」と問われたように思います。
私は要領のいいところがあるので、すぐに「神様わかりました、今、僕は自分の命のためにこんなに祈りましたけれども、命が長らえたら、皆さんのためにそれ以上祈ります」とお祈りしました。
しかし主は「シーン」。正解じゃないのかなって思いました。二日目三日目どんどん苦しくなってまいりました。主の御声は、聞こえず沈黙であります。
私は本当に祈って、自分の内側を探られてそしてようやく行き着いたところは、ヨブ記。「主は命を与え命を取られる主の御名はほむべきかな」。そうだー、もう自分の命が長らえたってそう大したことはない。「神様、私自身をあなたにささげます。もし命を取られるんだったら一つの麦として死なせてください、そして多くの実を結ばせてください」とお祈りした時に、神様がまたしばらくぶりに声をかけてくれて、「本当か」って言われました。本当のつもりでした。しかし、もしここで癒されるとまたすぐに忘れて、喉元すぎると熱さを忘れるような私を誰よりも知っているのは主ご自身です。
主はまだ足りないと思ったのでしょう。三日目、四日目、五日目、もう苦しくて死にそうな断食の生活の中で、もう主よ勘弁してと思いながら一生懸命祈って祈った時に、最終的には肉が弱くなって、「全部主よあなたに委ねます。明け渡します」と本当に思えて言った時に、ふっと力が私から引き上がったのであります。
主は言われました。「その時を待っていた」と。
私は、まだ肉が強くて自分のために生きている自分がいました。その取り扱いの中で神様が本当に愛なる方、真実な方であることをよくわからせてくださって、神様が最終的には私の肉体に触れてくださったのでした。
翌週に大学病院の専門のお医者様が、再検査の結果を持ってきた時の顔は一生忘れることができません。「天野さん、なんでしょうか、すべての数値が正常になっています。」それから十年、未だにその数値は上がっていません。
3.驚嘆する伝道
使徒二章では「いったいこれはどうしたことか」と言っています。神様の御業は驚くべきことが起こるのです。初代教会ご覧頂きますとわかるように、影に触れただけで病人がいやされるという御業があの使徒たちには起こったということです。
先生方や愛する兄弟姉妹たちに、そのような御業がおきたらどうなるでしょう。人々は皆さんの影を追い求めます。

■教会でのリバイバル
私達は一九九八年の三月二八日から二九日にかけて、リバイバル的なことが起こったのです。半端ではない、考えられないことがたくさん起きました。
祈られて倒れた男の子から風が吹いているのです。その風はなんだろうと思って触れた瞬間、バーンと飛んでいって聖霊の満たしを受けるという経験をしました。
あるいは私がお祈りしている時に小さな子どもたちが、私の背後にイエスさまがおられることを見たとか、私の教会の会堂の中に天使がいつも舞って、天使を見る子どもたちが溢れたりとか。天使が毎晩のようにうちの宣教師の前に現れて、リバイバルのためにどういう働きをすべきか全部説明をして、そのような働きをすることができたとか、私はもう考えられない体験をいっぱいさせていただきました。でもまだそれは天の窓が開きかかっただけなのです。
主の臨在が、油注ぎが、濃厚になりますと、世界中で起きたようなわざが起こるのです。私は中国に伝道していますが、半端ではありません。海外に行くと、日本で起きる何倍もの数えきれないほどのわざが起きます。何がそうさせるのでしょう。
もちろん神ご自身でしょうけれども、日本にもそのようなすばらしいリバイバル的なわざが起きてほしいと思う人は、アーメンといいましょう。
■「座布団礼拝」
私が以前、九州の聖会に呼ばれた時に、神様の臨在の中で、ほんとうに自分も酔いしれました。そしてその聖会が終わって、主催した教会の礼拝に招かれました。
するとその教会の、若い青年たちが賛美をリードしていた時に激しい臨在が降りてきたのであります。教会の婦人たちが、毎日のように臨在がおきますようにとお祈りをしていたからです。賛美のリーダーたちが、みんな倒れました。
すると牧師先生は、堅い真面目な感じなのです。何やってんだとすごい怒った顔しておられるのです。ゆっくりしていると私が飛行機に乗りそこなって自分たちの責任になると思って怒っておられたのです。
私は飛行機に乗りそこなっても大丈夫と思っていたのですが、先生は配慮して急がせました。次のワーシップリーダーを立ててもまた倒れるので、先生は前に出てきました。すると、先生も神様の臨在にひざまずいてしまって立つことができなくなってしまいました。もうどうしようもなくなって、何の紹介もなく、私を講壇に呼びました。私も講壇に上がろうとしたら、うわーっと神様の臨在の前にひれ伏してしまいました。
その教会は当時まだ座布団の教会で、座布団がいっぱい敷き詰められているんですけれども、何を間違ったのかこの先生は臨在の中で立ち上がって、座布団を持ってみんなに投げ始めたのです。牧師が日曜日の礼拝で座布団を投げるとは。
私は「座布団礼拝」と言っているんですけれども、座布団を投げている先生が私にも一緒に投げろと指示をしたのです。だから私も一緒になって投げました。
あとで本当にびっくりしたのですが、座布団にあたった人が全員癒やされたのです!
このような驚くべき伝道が日本にも展開しますように。
こんなことは当たり前のように起きているのが今の世界の教会の現状です。日本だけがある意味では霊的に塞がれているような感じがします。
皆さんの群れが本当に霊的に打ち破って天の窓が開かれて、圧倒的な神の栄光が初代教会に起きた如く起こるように願いましょう。アーメン。
                                      (第25回全国聖会 第二聖会メッセージ要約)