聖書は、ルカの福音書7章13節を開きましょう。

主はその母親を見て、かわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と言われた。

これは、たった一人の愛する息子を失った女の悲しみが記されています。御主人に先立たれて、一人息子を頼りに生きていた母親、その息子が突然死んでしまったのです。その葬式は何と深い悲しみにつつまれていたことでしょう。柩の側で呆然としている母親の姿が目に浮かびます。

すでに夫を失い、その悲しみも長く続いてきましたが、さらに最後の頼みであった息子さえ失ったのですから、その悲しみに、とめどもなく流れる涙を拭うこともしないで、彼女は息子の葬式の列に加わっていました。しかし、イエス・キリストがそこを歩いて来られて、その女性の悲しんでいる心をしっかり理解してくださって、その行列を止めたのです。そしてイエス・キリストは、その母親に「泣かなくてもよい」と言われたのです。そしてその息子を生き返らせてくださったと、聖書は記しています。

この驚くべき奇蹟の物語の中に、人間がどうしても解決できない問題に対する解決をイエス・キリストがもっておられるということを知ることができるのです。彼女に対してやさしいことばをかけても、実際に助けることができない多くの人たちに比べて、具体的に助けてくださったイエス・キリストの恵みの御業のすばらしさに驚くのです。「泣かなくてよい」とおっしゃってくださるイエス・キリストのおことばの裏には、はっきりとした慰めという事実があるのです。

私たちは人生の中で、色々な問題に出合います。あなたもきっとそうでしょう。自分の勢いで、自分の知恵で、あるいは自分のお金や権力で解決できる問題もたくさんあります。でも、問題の大小に関わらず、何をもっても解決できないような困難が私たちの目の前に現れることもあるのです。そして、そうした問題の中で私たちは孤独を感じるのです。そんな時多くの人たちは、「誰も私のことを理解してくれない」と思ったり言ったりするものです。そして、どうして良いかわからなくなり、妻は夫に、夫は妻に、あるいは子供に、姑にというような具合に、廻りの人たちに当たり散らしたりもするものです。そんなことをしても決して解決にはならないことはわかっているはずです。どうしようもない自分の心、これに触れてくださる人は誰もいないのです。

初めに読んだ聖書にもどりましょう。

やもめの女が悲しみの淵に沈んでいる時に、誰も慰めることが出来なかった時に、「泣かなくてもよい」と声をかけてくださったお方が、やはりあなたの傍らにいてくださることを知ってほしいのです。イエス・キリストは、あなたの霊を救ってくださる救い主です。霊を救ってくださるだけではなくて、あなたとの生活をも助けてくださいます。

信仰とは神様との契約ですから、このお方と契約を結んで、信じ、頼りながら生きる人生が、クリスチャン生活です。

この偉大な救い主、驚くべき慰め主を、あなたがご自分のものとして心の中に受け入れて、日々の生活の中でどんな問題に対しても勇気をもってぶつかってくださることを祈ります。

神様は愛のお方です。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(第一ヨハネ4・10)と、聖書に記されています。

イエス・キリストを心から信じる者の一人にあなたもなってください。

(万代恒雄・放送メッセージより)