はじめに聖書を読んでおきましょう。ヨハネ21章15節です。
「彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。“ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。ペテロは言った。“はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。”イエスは彼に言われた。“わたしの小羊を飼いなさい。”」
これはうるわしい会話です。よみがえったイエス・キリストが、弟子の最長老であるシモン・ペテロに言われたことばです。この、イエス・キリストの問いかけは重大なものであると思うのです。つまり、私達に対して、「わたしを愛するか」と問いかけてくださるのです。
愛するということは、私達にとって大きな関心であります。現代人は愛に飢えていると私は思うのです。あなたも、心の奥深く愛したいと願い、あるいは愛されたいと願っていらっしゃると思います。しかし、そのように軽々しく口にする愛というものを、その本質をご存知でしょうか。そうした事について論じ、語り、また教えている書物はたくさんあります。しかしながら、私達が本当に愛ということを知ろうと思う時に、私達はいくつかの事を考えてみなければならないと思うのです。
イエス様がペテロに言われた言葉は、ペテロの心を実に揺さぶるような大きな質問でした。愛というものは、その愛する対象によって、尊くもなり卑しくもなるように思います。すなわち、世の中には何よりもお酒を愛する人達がいます。しかし、そのお酒に夢中になり、稼いだお金をつぎ込んでいるからといって、あなたはその人を尊敬できるでしょうか。その愛する対象によっては、尊くも空しくもなるとは、そんな事でしょう。その人が愛している対象によって、尊くも卑しくもなるし、その人の人格の程度もわかるというものです。
私は今あなたに、あなたが今まで一度も愛した事はないかもしれませんが、真の神様を愛してみませんかとお勧めしたいのです。信仰なんかつまらないとお考えでしょうか。信仰というのは、信じるということとは別に、神を愛するという意味でもあります。
この世の中で動かないもの、最もきよく正しく尊く絶対的なもの、そして、人間的な感情や、計略、策略、そうしたものとは無縁であって、公平寛大で、実に間違いのない、人を片寄り見ることのない神を愛してみませんか、と言いたいのです。
愛する対象によっては、尊くも卑しくもなるのですが、最も尊い愛は、神を愛する愛ではないでしょうか。人間の持っている打算的な、あるいは利害に絡んだ愛情ではなく、全く正しいお方を愛する愛が、私達の中に芽生えて来るならば、少なくとも私は、あなたがイエス・キリストを信じて、神の愛と恵みの中に飛び込んでくださることを尊く思うのです。
キリストを信じること、つまりまことの神に対して信仰を持つということは、単に瞬間的な問題ではありません。その事によって私達は、最も公平で正しいお方を愛したがゆえに、私達の心は今日までのような、汚れに満ちた自己中心的な生活から遠ざかるでしょう。
私達を愛している神は、そのことを要求されるお方です。そしてその愛は、愛する相手の意向に沿おうと努力するものですから、私達のたましいは、自然ときよめられて、尊いきよい生活が始まるのです。
キリストを信じ、きよめられた生活がはじまります。それは、最も正しくきよいお方を信じ愛したからその愛の反映として、生活も変えられてくるのです。私達の罪のあがないとして十字架で血を流してくださったイエス・キリストの救いにあずかる者とさせていただきましょう。
(万代恒雄・放送メッセージより)