最重要課題は何か
草加神召キリスト教会主任牧師 天野弘昌
■異次元の喜び
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい。」(Iテサロニケ5・16~18)
「これから遣わされるにあたって最大重要課題は何か?」ということについてお話しします。
この御言葉の「いつも喜んでいなさい」の「いつも」が本当に難しいと思います。「いつも」がなければまだ大丈夫かなと思います。「祈りなさい」という言葉もいいと思います。でも「絶えず」がついているんです。欠かすことなく絶え間ないで祈りなさい。さらには、「すべてのことを」感謝しなさい、すべてのことを感謝できてるという方はいらっしゃいますか?自分の思った通りのことになったら感謝できますが、最悪という現実が起きた時に感謝できますか?
ローマ書十五章三節「キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです」このように書かれているので、イエス様を模範とするクリスチャンは喜んじゃいけないと思ってはいないでしょうか。清く正しく清貧で、日々己が十字架を負うって、苦しみに耐えてこの世を全うしていくんだ、喜んじゃいけないって思って入る方いらっしゃいますか。私は信じて間もない頃そう思ってなんとも暗い気持ちで過ごしていました。
しかし、聖書の中には矛盾する言葉があり、ピリピ人への手紙4・4には「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」とあります。
しかし矛盾してはいません。先程の喜びと後者の喜びは全く言語的にも違うのです。
最初の喜びは英語の聖書では「プリーズ」という言葉が使われています。プリーズというのは享楽・快楽の喜びという意味です。つまりイエス様はそのようなこの世の享楽や快楽を一切なさらなかった完全な方です。
しかし、主が与えてくださる異次元の喜びに満たされるクリスチャンになりますと、想定外の最悪の出来事がおこったとしても、喜びに満たされ、揺り動くことがないのです。
例えば迫害されて死んだキリシタンの人々は、不平や不満を言いながら死んだでしょうか。きっと平安のうちに死んだでしょう。これが異次元の喜びです。
この異次元の喜びとは「プリーズ」ではなくて、英語では「リジョーイス」と表されている喜びです。
リジョーイスとは、刹那的な快楽ではなくて、主にあって永遠に繋がり永遠に至ろうとする喜びです。主がいつも願っている生き方を選び取る時に、霊的に私達の内側から湧き上がってくる喜びです。
このリジョーイスを皆さんも経験し、満たされていくならば、この地上の歩みは、本当に見違える程となり、周りの人々に良い影響を与え、あなたは主の証人になるのです。
私はこのリジョーイスを追い求め、全世界のあらゆるところに行かせて頂いた時期がありました。その時、生まれて初めて聖霊に満たされ、聖霊による喜びを知ったのです。この聖霊による喜び、リジョーイスを味わい知ったら、この地上の中でどれほど力強いかと思うのです。
■主はあなたとの交わりを求めている
北海道のキャンプの御用に行った時のことです。二日目の晩のことです。二日目の晩というのは、決心を募ったり、献身のためや聖霊の満たしを求めたりと一番クライマックスです。私はその時に大変な疲れを覚えていて「神様もし休めるなら休ませてください」というような思いもありました。
ちょうどその時に雨が降ってきたのです。キャンプファイヤーをやろうとしていた矢先に雨がふってきたので、これでキャンプファイヤーやらなくてすむかもしれないと、ちょっとホッとしました。係の方も「雨が降ってきたのでキャンプファイヤー中止になるかもしれませんので、もう少し控えておいてください」と言いに来られました。私は「そうですか、雨ですか残念ですね」と言いました。
その時、聖霊なる神が私に言いました。「本当に残念なのか」
神様は、全部お見通しでした。私は聖霊様に示されたら、すぐに悔い改めるようにしていますので、「主よ、ごめんなさい。全知全能の主よ、本音を申し上げます、あなたはご存知でしょうが、私は本当に疲れていて、キャンプファイヤーが中止になることを肉が喜んでいました」と泣き崩れて神の前に打ち砕かれたのです。
私達は、悔い改めると実を結ぶと思うのですが、その時、真実なる主の声が聞こえました。
「なぜ、私があなたを遣わしているか知ってるか」
「それは多分主が私達の教会に良いことをしてくださったので、低迷している日本の教会に、うちの教会でやっていることを少しでも伝えられたら皆が希望を持ち元気になるかなと思います」と私は答えました。
すると、しーん。神からの答えはありませんでした。
私は、ほとんどフランチャイズの店長みたいなことを言っているのです。うちでこんな風にやったらうまくいきました。だから皆に伝えてみんなもこのやり方をしたらうまくいくと思います、と神様に言ったら無言です。神様はそんな答えを求めていないことがわかりました。
そして「神様、あなたが私を遣わすのは何なのでしょうか」と砕かれてお祈りした時に、しばらくしてから御声が聞こえたのです。
「あなたが外の教会に遣わされた時に、ひざまずいてよく祈ることを知っている。私はそれが大好きだ。私はあなたともっと交わりたい」
えーっと驚きました。あまりの次元の違いに。私はフランチャイズの店長のように、ノウハウやハウツーを伝えるために遣わされていると思っていたのに、そうではない、私が外にいくとアウェイなので、戦いもあるし何を話していいかわからないし、本当に真剣に祈って主の前にひざまずいて祈る、それが主の一番願っていることで、それ以外のことは枝葉末節であることをその時突きつけられたのです。
主よごめんなさい、こんな小さい弱い者と主は交わりたいために、私のようなものを遣わす。「そんなことをしなくても私は主と交わりたいです」というと「あなたはそうはならない、何かがないとあなたはもっとひざまずいて祈ろうとしないから、そのことも全部許容して、あなたを遣わしながらあなたと交わりたい」
愛する皆さん、しばしば想定外のことが起こった時に、本当に辛くて苦しい時に、祈らざるを得ない、祈るしかない、祈りの場に出ていく、それは神が許容されている領域かもしれない。なぜか。それは主と交わる時があまりにも脆弱化している時に、神はそれを許してでも、そのような時間を持つのです。
自分の隠れた部屋で、どこまで主と交わり、主の御声を聞き、聖書をしっかり受け止めて、自分自身が取り扱われて主の物となり、そのような信仰の姿勢がなされたら、どこまでも右肩あがり前進していくと思います。
私が、悔い改めをした時に雨があがりました。本当に不思議にキャンプ場の場所だけが満点の星で晴れていました。そうして、もっと驚いたことは、キャンプファイヤー中に牧師のお嬢さんが「イエス様が降りてきた」と言い出すのでした。皆も「ああ、本当だイエス様だ」とそれが見えるのです。私は全然見えません。子どもたちは赤い衣を着たイエス様が降りてきた、そして白い衣を着たイエス様が天に帰って行くというのです。
その子たちは、主のとりあつかいを受けて、ものすごいキャンプになったのです。神の主権と聖霊の圧倒的な臨在で介入してくださり、多くが献身表明をして、ありえないことが起こったのです。異次元の喜び、異次元の祈りがあったのです。
私達の教会もリバイバルした時にたくさん不思議なことが起こり、それによってどんどん人が集まってきました。それは主が介入し、主がそこに臨在したので、神の栄光が表されたのです。私は皆さんの教会がさらにそうなることを願います。
■どんな境遇にあっても対処する秘訣
ピリピ4・11、12を読みましょう。
初代教会の人たちは、霊的にその領域に招きいれられていたと思います。だから、あらゆる難を何回も体験しながら、それでも主のために命がけで邁進していきました。肉的ながんばりや気合では到底追いつかない、聖霊の圧倒的な押出によって、彼らの働きが拡大し成就していったと思います。
「私はどんな境遇にあっても満ち足りることを学んだ」と、どんな境遇とは決して良い境遇だけではないということです。むしろ悪い私達が願わない境遇にあったとしても、パウロは満ち足りていたということです。
主にあって満たされていた、それは聖霊による喜び、聖霊による充足感が、彼らの内側にあったので、それを乗り越えるそれを超越する領域に入っていたのだと思います。
さらにはあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ているとパウロは言うのです。これは主からの上よりの知恵、私達の地上的な知識ではありません。
知恵が主から上より与えられる、パウロのように次の霊的グレードアップする私達になるのです。
■日本の教会には逆転サヨナラホームランが起こるのではないか
私達のクリスチャンライフの結末は決まっているのです。「世に打ち勝つものは誰か、イエスを神の子と信じる者ではないか」「私達は圧倒的な勝利者になる」と聖書はいっているのです。
聖書は、私達は完全に勝利者になると言っています。
私は、地上において痛みや苦しみがなければ、本当に勝利した時の喜びは味わうことができないかなと思うのです。
高校野球の試合でも圧倒的な強いチームと弱いチームで、勝利がすぐに決まってしまうと、試合の途中に観客は帰ってしまいます。しかし点差が開かず最終回に逆転するかもしれないとなると、観客はハラハラ・ドキドキして絶対に帰りません。応援します。もしかしたら九回裏に満塁サヨナラホームランで逆転勝利するかもしれません。日本のクリスチャンの状況ってこうなるのではないかと私は勝手に思っているのです。
日本のクリスチャンはどんなにやっても負け戦のようで、外国の教会と比べると惨憺たる状況です。でも主は日本を尊んでいらっしゃって、最後の最後にスーパースターにしようとしているのではないでしょうか。皆さんがそんな試合の最後のバッターになったと思ってください。振りかぶって逆転サヨナラホームラン!すごくないですか。皆さんはサヨナラホームランのバッターになるのです。と、私は勝手に考えているのです。
日本の時代劇。ほぼ忍耐の限りが八〇、九〇%です。代官様にいじめられる弱い者がいて、最後の最後に水戸黄門の印籠や、遠山の金さんの桜吹雪が出てくるのです。忍耐の限りをつくして、最後の最後に勧善懲悪する高揚感。それを誰よりも知っているのは私達の主ではないでしょうか。
韓流ドラマでも、だいたい王様と主役の女優が結ばれるのですが、敵がやってきて大変なんですよ。結果は決まっているのです、だいたいハッピーエンド。
日本のドラマや時代劇も結論が決まってるんです、それでも見るんです。それが民族性なのでしょうか。
どんなにやっても結果が出ない、どうしてという叫びを聞いておられるのも主ですよ。主の契約、約束は変わらないのです。私達は圧倒的な勝利者なのです。どんな状況でも私達は勝利者なのだから、この地上の歩みの中で勝利的に生きるんだと、信仰持って聖霊の力を借りて前進していきたい、アーメンと言いましょう。
■条件つきではない、無条件の明け渡し
四十代の時、私は体調が悪くて病院にいくと、結果的に多発性骨髄腫という病気であると告知され、悪くすると余命半年と言われました。私は主からリバイバルを見せると約束されていると思っていたので、主に対して憤りを覚えました。
私は自分のガンのいやしのために食事を断って、命がけで祈って祈りました。御心を求めて、心を注ぎだし、悪戦苦闘の祈りでした。でも、神様からなかなか合点のいく言葉はありませんでした。
私は更に密室の祈りを続けていました。その時に主は「あなたはなぜこの病気が許されたと思うのか」とおっしゃられました。私は「もしいやして下さるなら、魂のためにもっと祈ります」と言いましたが、主はその答えを気に入らなかったと思います。これは、ほぼ交渉ごとでございます。私は自分のいやしのために魂の救いを祈ると言ったのです。これはおかしいと今ならわかります。
「わたしを◯◯してくれれば、ああします、こうします」主は条件付きの主ではありません。無条件に私を愛してくださった主は、私達を無条件に愛し明け渡す。主について学ぶのではない、主ご自身を知る、という領域です。
そして一週間ぐらい断食した時にヘトヘトになりました。疲れ果てて、自分の力がどんどんと死に向かっているなと思いました。その時に、主が声をかけてくれました。「あなたは私を愛するかとおっしゃられました」「はい、愛します」と私はすぐに答えました。「あなたはリバイバルを願うかとおっしゃられました」「私はあなたに約束されたリバイバルを願っています」と言いました。そして三日間沈黙が強いられたのです。
十日目、もう苦しくて辛くて、私に求められている主の御心はもっとグレードの高いものであるということは今ではわかっているんですけれども、私はその時初めて、「もう主よ全部委ねます、あなたの願う通りにしてください、私は自分の命を惜しまないで献身した者の一人です、だから主の好きなようにしてください。」一粒の麦が死ななければ一粒になる、死ねば多くの実を結ぶという聖句が出てきました、「私が一粒の麦となって死ぬのならば、多くの実を結ぶのならば、あなたに私の命を全部委ねます。主は与え、主は取られる、主の御名はほむべきかな」と最後に賛美しました。
それが主が待っていたことなのです。「心から主よ、私の命を捧げます、もし私の命を長らわせてくださるならとは言いません、それは主の主権ですから。」
私の体の重い重圧のかかっているような、なんとも言えない痛みと苦しみが浮かんだのです、なんだろうと思いました、その時からすごく調子がよくなったのです。病院に行き、治療方針は既に決まっていたのに、もう一度検査してくださいと言いました。
そして検査をすると、全ての数値が完全に正常値に戻っていたのです。神にはできるということがよくわかりました。
でも神様の働き、神様の介入を私が招き入れるために、私がしたことは、日々己が十字架を追って自分に死ぬことです。
あなたの肉はもたげて来ませんか。あなたの内側に人々からの承認欲求、認められたい、覚えられたい、愛されたい、いろんな弱さがあります。もちろんそれはごく普通のことだと思います。でも聖書は私の主は、それを超えた愛なる方です。
己を捨てて、日々十字架を負うことで、あの初代教会は拡大していったのです。国を超えて宣教の働きがリバイバルをしたのです。
ぜひ、いつも喜び、絶えず祈り、全てに感謝するという生活を目標として、生活をしてください。その者たちには力が与えられ、あなたのビジョンは成就する大きな力になると信じます。
(第26回日本福音宣教会全国聖会 聖会Ⅲメッセージより)