神と共に

万代恒雄

まず聖書を開きましょう。
詩篇34篇18節です。

「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。」

神様は目に見えません。聖書に掲示されている神様は霊であられるので、それでは神様は全然わからないのかというと、そういう質問に対しては、心の打ち砕かれた者の近くにおられる、と申しあげましょう。

目が見えなくても、はっきりと、たましいの奥底に感じることができるといえばよいでしょう。神様は私たち一人ひとりから遠く離れておられるのではありませんと、イエスの弟子も人々に語っています。すべての人々、すなわち誰でも呼び求めるならば、神を信じることができるように神様はしてくださっているのです。

そう言うと、神様を信じていない方々は、「自分には神様はわからない」とおっしゃるでしょう。それはなぜかと言うと、あなたの心が砕かれていないからです。では、心が砕かれていないとは、どういうことでしょうか。

ある人がいたとします。いくら良い意見をして忠告してあげても全然耳をかさない、何もかも自分中心に物事を考える。いつも腹を立て、ブツブツ文句を言っている。こんな人に時々出会うことはありませんか。こういう方々は、つまり心が固いわけです。人の言うことなどには耳を傾ける余裕がないし、柔らかさがないのです。これではいくら神様のおことばを聞いても、耳を傾けようとしませんから、神のおことばによって変えられることはありません。そんなに頑固ではないと言われるかも知れません。でも、人間は、大なり小なり自己中心的だし、注意されると腹が立つし、とにかく自分のために世界が回っているような考えを持ちやすいものです。そういう自分に固守する姿、これはいわば、固い頑固な石のような心です。

なぜ神様が、心の打ち砕かれた者の近くにおられるかと言いますと、心を砕いてほんとうにへりくだっていないと神に従う気持ちが起こってこないということを、神様は知っておられるのです、

病気で寝ておられる方、しかも望みを失って打ちひしがれている方々に会うことがあります。びっくりするほど心が素直になっておられる場合があります。そういう場合に思うのは、すなわち病という苦しみや悲しみ、問題のために、自分の人生観も自分の生活も考えも、すべてが砕かれて、いわば生活が停止させられているわけです。そこで自分の無力さを知るのです。無力を知るとは、つまり砕かれているのです。その時には素直な心で神に対して耳を傾けるようになっているのです。

何も心が砕かれるために病気になったり、問題にぶつかったりする必要もないのです。謙虚な気持ちで神を知りたいという願いをあなたがお持ちになれば、イエス・キリストは、あなたの傍らに立たれるでしょう。そして、あなたは神の臨在を知り、イエス・キリストを信じる喜びを経験することができるのです。

イエス・キリストを信じて、今日も感謝しつつ生きてまいりましょう。

(放送メッセージより)