まず聖書を開きます。

 詩篇106篇4節です。

 「主よ。あなたが御民を愛されたとき、私を心に留め、あなたの御救いのとき、私を顧みてください。」

 神様に対して大変謙虚なお祈りだと言えると思います。神様に、御民を顧みられるときに私を覚えてください、と祈っています。

 聖書の中に有名な物語ですが、イエス・キリストが十字架に架かられ死なれる時、ひとりの強盗殺人犯が処罰を受けて、イエス様の傍らに十字架にはりつけになっていました。その男は、自分の隣で十字架につけられているイエスを見て、このイエス・キリストが何の罪もないのに十字架で死なれてゆくのを見る時に、自分の人生と比較対照しながら、思わず次のように言いました。

 「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」(ルカ23・42)

 私たち人間は、非常に高ぶっています。自分が何か偉いかのごとくに思っています。

 三つ子のたましい百までと言いますが、子どもだって、変なプライドをもっていることがあります。そのような私たちが謙虚な気持ちになって、救い主であるイエス・キリストに向かって「私を顧みてください」と、祈れるということは信仰のスタートだと思うのです。あなたも会社で、家の中で、方で風切って歩くような気持ちになっておられるかも知れませんが、神の子イエス・キリストの前に、「私をあわれんでください」と祈るようなものになりたいとお考えになりませんか。肩を張って胸を張って偉そうに生きている人を羨ましく思うかも知れませんが、実はそういう人であっても心の中は淋しいものなのです。赤ん坊が母親の愛の中に育まれて、その腕の中でスヤスヤ眠っているような、そんな安らかさを、いくつになっても失いたくないものです。

 そのためには、自分で理屈をこねたりするのではなくて、一人で謙虚な気持ちになり、「神様、私を顧み、憐れんでください。」というような祈りが、思わず自分の口から出るのを、自分の耳で聞いた時、あなたはびっくりするような神の平安を心の中に感じるはずです。

 信仰というのは、そういう素直なものなのです。

 もしかしたら、あなたは立派な方かも知れません。お金がある方もおられるでしょうし、地位と名誉がある方もおられるでしょう。多くの人々が、あなたに頭を下げる立場の人もおられるかも知れません。

 でも、全能なる神の前に、「神様、私は駄目なのです。力がないのです。汚いです。どうぞ私を覚えて、あわれんでください。」と祈れるとき、あなたの人生は新しい変化を始めるのです。そして、その時から、素直な砕かれた心になって神の前に出る事、これが選ばれる条件です。イエス・キリストを信じて救われるのです。

 イエス・キリストは私たちの身代わりになってくださったのです。イエス・キリストの救いは、彼の十字架の犠牲によって完成したのです。私達人類が、自分の罪を認め、イエス・キリストによる十字架のあがないを感謝をもって信じ受け止めようではありませんか。

(放送メッセージより)