神の恵み

万代恒雄

 聖書は、詩篇31篇17節です。
「主よ。私が恥を見ないようにしてください。私はあなたを呼び求めていますから。悪者をはずかしめてください。彼らをよみで静まらせてください。」

ある正しい者が、本当に辛い思いをしている状況がうかがわれます。正しい者が、神に対して解決を求めている祈りです。「恥を見ないようにしてください。」恥を見るということばは、日本人の私達にとっては、聞きなれた言葉であります。建前で生きているとか、世間的に…とか言いますが、結局は、恥をかかないようにということが、一番大きな根本的な原因だろうと思います。人と比べて恥ずかしいことは嫌だという、そういう感じがあるわけです。だからそれは、私たちが恥をかかないようにするというのは当然のことでもありますゆえに、それはいいのです。しかし、私たちがそれを人間の意識の中であまりいじくり回すと、つまらない虚栄心に変じてみたり、反対に他人の悪口を言ってみたりと、醜い争いに発展します。

やはり自分たちの一番奥底の醜い所を誰かに見せるかということは、非常に必要で考えなければならないと思います。

「主よ。私が恥をかかないようにしてください。」と言うようなことが祈れるということは驚きだと思いませんか。多くの人々は神に祈る、イエス・キリストを通して祈るということを、すごく恰好がいいお祈りだと思っているようです。それは、教会に来て誰かが代表して祈っているのを聞くと、そう思ってしまう場合もあるかも知れません。それは牧師さん達のお祈りも含めてですが、長年の信徒や牧師たちは、神様に祈るということについては、長年の交わりの故、慣れていますので、自分の気持ちを神様に訴え、願い求めることが、自然のうちにできるのです。神様が救い主、助け主として自分の中にいてくださるのです。

そのような気持ちになると、いつも神様に感謝している生活が始まるのではないでしょうか。こうした意味において、神を信じている喜びを味わっていますと、人生の歯車は、より痛快な響きをたてて回るものです。そんな生活になりますと、何の理由もなく、しみじみと幸せを感じることがあります。何気なく空を見上げた時、道を歩いている時、朝目覚めたとき、夜遅く学びを続けている時、何の理由もなく、私は信仰をもって本当によかったと、しみじみ感謝します。神に対する感謝が出てくるというのが、信仰生活だと、私は思っているのです。

クリスチャンになったから問題がなくなるわけではないし、病気になる時もあるでしょう。心の悩みもあるわけですが、いっさい問題ではないのです。それらは必ず解決されるのです。

どんなことだって自分の益にならないことが起こるはずがない、なぜならば、私にいのちを与えてくださった神様が、私とともにいてくださるからです。そして神に対して感謝し、賛美しているのですから、神は全能の力をもって、良くしてくださらないはずがないわけです。

あなたも今日までの自己中心の不信仰な生活をやめて、心の中にイエス・キリストを本当に信じて、神に感謝し、ほえたたえるという人生を歩みましょう。そのときに、自分の内に神の力が、すみずみにまで働いて輝かしい落ち着いた喜びに満ちあふれ、「良かった」と自分で言えるような信仰のあゆみが始まるのです。

(放送メッセージより)