聖書を読んでおきましょう。詩篇20篇9節です。
「主よ。王をお救いください。私たちが呼ぶときに私たちに答えてください。」これは家スラエルの信仰を反映していると思えます。イスラエルの敵は軍備に信頼を寄せているようだが、イスラエルは主の名、つまり神に確信を置いているのです。
神様に「私たちが呼ぶときに私たちに答えてください。」などと、ダダをこねるような、甘えたことが言えるということは、とても幸せだと思われませんか。

自分の心を、ふっと第三者の目で見てみるとか、或いは考えてみるときに、若い時から心は少しも歳をとっていないなあと思うことがしばしばあります。つまり、大人であろうと子どもであろうと心の動きというのは似たようなものなのです。だから、ちょうど子どもが自分の親に向かって「呼んだら返事をしてね」と言っているのと同じことであって、はなはだ欲張りな感じが現れているわけです。
同様に、神様というお方を自分のものとして意識できるという幸せも、また格別ではないかと、私は思うわけです。自分の人生において、何か困ったことに追い込まれたとき、途方に暮れてしまったとき、あなたは、最後の手段がある、神に祈ろう、と考えたことがありますか。

実は私は信仰をもってから何十年も経っていますが、人間ですから、問題にぶつかるとやはり右往左往したり、あるいは自分でいろいろ考えて物事に対処したりするのですが、同時に、何となく落ち着いていたりもするのです。その理由は、イザとなったら神様に助けていただこう、神様にお願いすれば大丈夫だというような甘えた気持ちがあるということを認めないわけにはいきません。そしてそれは、私の人生における楽しい瞬間でもあるのです。神様が私の味方なのです。

聖書に次のような言葉があります。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)と。人生に於いて、神様が自分たちの味方でいてくださると言うことなのです。神は私の味方なんだ。神様、私が呼ぶと応えてくださいね、というような気持ちで信仰を持てることを感謝するのです。また、問題が解決された時にも、「もっとお祈りしていれば良かった」などと、横着なことを考えたりもするものです。
ですから、返事のない、物を言わない偶像、また、おまじないのような事をして、それを信仰と考えるのは大きな誤解です。

人格をもたれたまことの神に対する信仰をもっていると、神様との対話、つまり祈りというものが、実に生き生きとできるものであります。ですから、「私たちが呼ぶときに私たちに答えてください」というような意味の祈りも可能になるわけです。イエス・キリストを信じる信仰、それは私たちのたましいを、そのように励まして強くする力なのです。そして、人の前では強く見えるかも知れません。自分より下の者、ちょっとおかしな言い方ですが、子どもとか自分の部下だとか、そういう方々に対しては、あなたは強がりを言えるかも知れませんが、ひとりになったらきっと孤独だろうと思います。そういうあなたが、「神様、私があなたを呼ぶとき助けてください」というような気持ちで祈れているなら、本当にすばらしいと思うのです。しかし、ほとんどの方々は、そういう気持ちはおわかりにならないでしょう。しかしあなた自身は助けを必要としているはずです。

イエス・キリストに向かって、自分の心の罪を悔い改めて、「イエス様、あなたを呼ぶときには答えてくださいますように」と申し出ました。同じ詩篇の作者は次のように告白しています。
「神よ。私はあなたを呼び求めました。あなたは私に答えてくださるからです。…」(詩篇17・6)
自分の罪を悔い改め、助け主と信じるイエス様に救いを求める、こういう神様との間のお約束を身につけ人生を送ってゆくならば、今あなたが直面しているいろんな問題、悩み苦しみは必ず解決の道を見出すことができると信じるのです。
(放送メッセージより)