「励まされた」との反響の大きかった、3月号の落穂(第658号)に掲載されたお証をご紹介いたします。

「イエス・キリストとの出会い」
高知西福音教会会員 生藤貴博

実家のリビングのカーペットの上に等間隔に月が並んでいました。どれも下弦の月で、均整のとれたその美しさに見惚れていたのを今でも覚えています。

2014年、24歳の時分、そんな幻覚を見るほど病気は進行していました。身長170センチに対し体重は38キロを下回り、栄養失調の影響で夜盲症になり暗闇では何も見ることができず、強迫神経症の症状も現れ、雷が自分に当たるような気がしてならない恐怖に襲われました。食べても吐いてしまう。そんな空きっ腹の状態で55度の酒を呑むと、食道の上から胃まで順番に焼けていくのが内側からわかるのです。そして、一日2箱タバコの煙を酒で流し込む。ブラックアウトで頭は飛び回っている。そんな毎日でした。つまり、アルコール依存症者というやつです。

なぜそんな状態になったのか…生育歴、トラウマ、ストレスなどを理由にあげられますが、私には次のみことばが最も的を得ているように思います。「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は肉的な者であり、売り渡されて罪の下にある者です。私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分で憎んでいることを行っているからです。」(ローマ 7・14-15)幼少より努力をすれば何事をも成す事ができるという思想に生き、精一杯に努力してきました。神頼みなど、努力を怠る非現実的な行為だと心の中で馬鹿にしていたのです。頑張って、頑張って勉強しました。努力の甲斐あって進学校に合格したのですが、いつからか頑張っても授業に追いつけなくなりました。努力が足りない、もっと頑張らないと、と思えば思うほど空回りしていきました。しかし、自分の強情なプライドは凄まじく、日本の学校教育の方が悪いのだと決めつけて、今度は漫画家になるべく、美大に入って人生をリセット。これに甘い希望を抱いたのでした。

結果は同じでした。努力して美大に入学するも、そこにはとんでもない才能を持った漫画家志望が沢山いて、そんな彼らでもプロにはなれないという世界を目の当たりにしたのです。ですが、努力しました。努力すれば人間は何事をも成すことができる素晴らしい生物なのだと信じて必死になりました。しかし努力すればするほど、鬱症状は進行し、かえって何もできなくなり、下宿先に引きこもり大学は中退。それでも何とかしようと、酒とタバコの力をこの頃から頼りにしはじめます。努力するほど、かえって私がそうならない様にと努力してきたはずの憎むべき落伍者、ダメ人間になっていくのでした。「わたしは本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、わたしを救い出してくれるでしょうか。」(ローマ人7:24 )この聖句の通りです。アルコールをコントロールしようとすればするほど脅迫的になり酒量は増える。当然、飲むためにはお金が必要ですから、酒のために盗むようになり、嘘をつきまわる。当時、アルコールを手に入れるために人を殺す必要があったのなら殺せました。それでも止まらないのです。

そして、遂に折れました。自分が馬鹿にしてきた神様に頼るほか無くなってしまったのです。夜な夜な酔った頭でひざまずいて信仰の対象となるものの名前を思いつく限りあげて、ともかく「助けてください!」と祈ったのです。不思議なことに、その時、イエス・キリストの名前が心のなかにありました。祈りはじめて何日か経ったある晩、「これは無理だ、一人では無理だ。」と、何故か思えたのです。病気なのだと素直に受け入れることができ、病院に行き、依存症者の自助会に参加することで治療へとつながったのです。奇蹟がおきました。主が癒してくださったのです。あの地獄から救われてアルコールが止まりました。けれども、自分の強情さはすさまじく、喉元過ぎれば何とやらで、自分は良くやったもんだと有頂天になるばかり。遅れを取り戻そうと、また漫画家になる努力をしはじめたのです。ルカ17章の、重い皮膚病を癒された十人のうちの九人は、まさに自分の事だとよく思うのです。

罪に売り渡されている自分は、結局また同じことを繰り返すのでした。その後色々あって、2016年頃、エホバの証人の方と関わるようになり、人生の遅れを焦っていた私は、世の中はサタンに支配されている!社会が悪い!というエホバの証人の思想に惹かれ、再び人生のリセットを期待したのです。学校教育が悪、美大で人生リセット、と何ら変わっていません。けれども、ここで聖書との出会いがありました。エホバの証人独自の新世界訳聖書は文調が好きになれず、新共同訳聖書を購入し、聖書にはまりこみました。聖書の中に答えを期待したのです。と、同時にどんどん苦しくなっていきました。聖書を読み進めれば進むほど、聖書の律法にも、エホバの証人の定めた道徳基準にも、どうあがいてもとどかないからです。第一にタバコをやめられませんでした。エホバの証人ではタバコは禁じられていましたが、仮に、タバコを吸ってなくても、その道徳基準に達することは無理でした。結局エホバの証人では洗礼を受ける気になれず、かといって離れる事もできず、律法を守れない罪の意識、裁きの恐怖にさいなまれ、どうしようもなくなり、また夜な夜なひざまずいて祈りました。「神様、どうか私を導いてください。もう、何がどうなっているのか、どうしたら良いのかもわかりません。神様、もう何でも良いです。どうか、導いてください。」そんな、ぶっきらぼうな祈りだったのを覚えています。でも、この時ようやく神様に降伏しました。自分でコントロールする努力を諦めて、神様の配慮に委ねるしかなくなったのです。神様に負けを認めました。

しばらくして、不思議と実家の近くにある高知西福音教会に行ってみる気になりました。当時、エホバの証人実習生であった私の担当者に「違う教会にも行ってみようかと思います」と伝えたところ、不思議とその方が「ぜひ行ってみてください。色々なところを見てみるといいですよ。」と言ってくれたのです。賛美に心うたれて、魅力を感じ、毎週の礼拝に参加するようになりました。何よりも久保内宣世師が、相変わらず罪の意識と裁きの恐怖にさいなまれている私を聖書の学び会に誘ってくださった事が大きなターニングポイントになりました。全て神様が準備してくださっていたとしか思えません。依存症の経験から罪については多いに自覚できましたし、律法主義についてはエホバの証人の経験から納得しきりでした。福音に触れ、礼拝や学び会に参加するなかで、イエス・キリスト、そのお方と出会ったのです。「だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。」(ローマ人7:25)ハレルヤ。主が私を救ってくださったのです。

2018年4月1日に洗礼を受け、それからというもの、ニコチン依存も癒やされました。ある礼拝での説教に心動かされ、集会での証しの時間に、どうしてもタバコをやめられずにいる事、祈っていただきたい事を正直に打ち明けました。そしてニコチン依存は癒されました。兄姉たちに祈ってもらうことの恵み、その祈りの力をこの身で体感する出来事でした。頂いた癒しは、あげればきりがありません。家族関係、不眠症、対人恐怖症、依存症で極端に傷んだ身体の急速な癒しなどなど。ますます神の恵みを溢れんばかりにいただく毎日です。その恵みは携わっている依存症者の自助会にも注がれています。ミーティングの際、依存症者の間に主がともにいてくださることを感じます。一人でも多くの依存症の仲間が、イエス・キリストに出会い、真の癒しが与えられるように、そしてイエス・キリストが徴税人や罪人たちと囲まれるその食卓に、依存性の仲間たちを一人でも多く招待する自分になれるようにと祈っています。

今も、夜はひざまずき、あの時のどうしようもなかった自分を思い出し、いよいよ神の御前に無力で弱い者であるようにと祈ります。そして、主からひとつのビジョンを頂きました。それは、自分自身の証しを漫画にして家族、友人、依存性の仲間たちに読んでもらうというビジョンです。イエス・キリストの救いと癒しを与えられた者として、その喜びを届けたいと願っています。