信仰は宝です

万代恒雄

聖書を開きましょう。

ルカの福音書12章15節を読んでみましょう。
「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」

これは、イエス・キリストの言われた御言葉です。貪欲といいますが、確かに現代の人々は、ひたすら自分の欲望を満たすために夢中になっていると思います。節約ということも、貪欲を隠すための表現である場合もあります。つまりケチで節約を実行している、つまり自分の欲望を満たすものであるかも知れません。

ケチで、結局のところ財産をたくわえよういう考えしかないとしたら、貪欲の一種だと思うのですが、この貪欲というものは私達を誘惑する大きな力なのです。聖書はそのことを私達に語っています。欲張りとか貪欲とか言いますが、これらは根本的にみな同じで、絶え間なく、再現なく大きくなるものであります。

現代人の欲しいもの、それはお金でもありましょうし、地位や名誉というようなものもあるでしょう。それらを、何物よりも追求しようとする心は、私達が永遠に生きるかのごとくに錯覚させる場合があります。聖書には、よく警戒しなさいとありますが、私達は、永遠に肉体をもって生きられるものではないということを、はっきり知らなければなりません。いろいろな問題において、私達が満足を感じない場合に、貪欲が過ぎているのではないだろうかと、反省してみることも成すべきことではないかと思うのです。

信仰を持つということは、自分の立場とか自分の持ち場とかを自覚することにもつながりますし、人間が人間として生きるべき価値を、はっきり意味づけするものでもあります。現代のように、あらゆるものが私達の欲望を刺激している時代において、謙虚な気持ちで、「自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私達に知恵の心を得させてください。」(詩篇90・12)と聖書にあります。自分の寿命とかいのちというようなことも考えて賢く生きるということは非常に大事なことではないでしょうか。お金、お金と、お金を大切にして生きるのではなく、私達人間のいのちの価値というものが、決してお金の額によって計られるものではないということを、私達は知らなければなりません。限りなく膨らもうとする貪欲な心を抑えるのは何でしょうか。それは信仰です。

信仰は神様の前に自分の心を引き出し、神の前における自分の立場というものを位置づける大事な力です。

イエス・キリストを信じて、心の中にある醜い欲望をきよめていただく時に、あなたは何が善であり、かつ全きことであるかということをわきまえ知ることができ、本当の喜びとか幸せ、満足が、単にお金や物質によって計られるものではないと、きっと気づくはずです。その時に、あなたが耐えられないと思っていた苦しみにも、きっと耐えることのできる力が神によって与えられるでしょう。そして、お金や物以上に大きな喜びのあることに気がつくに違いありません。信仰こそ一番大きな宝です。
イエス・キリストを信じる信仰によって、心をきよめていただこうではありませんか。

(放送メッセージより)