信じてごらん
万代恒雄
春が近くなったと言っても、まだ二月のことで、寒さは厳しい日が続いています。
ふと農家の庭先でツバキに目がとまりました。ツバキの葉の色は変わらないので、昔はおめでたい樹とされていたようです。ぱっと花が咲き、ポタリと落ちるのが、首の落ちるような感じと同じで、武士の方々には敬遠され、床の間に飾るのを嫌うようになったと聞いたことがあります。
このように、人の心は幸運、不運に敏感であるといえましょう。信仰が、人の心に論じられ、信じ受け入れられて来たのは、こうした人の心の本質的な問題に触れているからなのです。しかし、問題の重大さの割合には、ずい分安易な方法で信仰が解決されているのも不思議なことだと思います。神様と呼ばれるものの範囲は大きくて、キツネや蛇のたぐいまで登場してきます。そして、迷信や邪教の類に対して信仰をもっている人達に、正当な信仰の必要性を説いてみると、キリスト教は一生かかっても分からないと反論されたこともありました。
信仰は一生かかって学ぶべきものかも知れませんし、それで神様の全てが分かるわけでもない。いえ、神様の許に行かないと完全には分からないものかも知れません。でも、それでも十分にわかるのです。神様についての全てが分からないから信じないというのは、おかしな考え方です。私達の生活の中で必要な恵みが与えられてくるならば、それで良いのです。そして、私たちの小さな心では理解しきれない大きな部分があることは、それだけ神様の偉大性の証明にもなるのです。
「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16・33)と聖書に記されています。つまり、信じてキリストに従うならば、人生に勝利できるという嬉しい御言葉の約束なのです。では、どんな人が信じることのできる人であるか、ということになります。
「心の貧しい人たちは幸いである。」との御言葉をみると、キリスト教は貧しい人の宗教と思われます。貧しいというのは物質的なことではなく、もっと深い意味があります。自分の品性が乏しいとか、人に相手にされない人、人生に疲れた人、病のために絶望した人、こんな人が多いのですが、キリストはこのような人の友となってくださるのです。このような人々に、キリストの教えは良くわかるのです。その反面、自分の冨により頼んでいたり、自分には学があると鼻を高くしてみたり、かなり正しい社会生活をしているので大丈夫であると言うような、つまり心の気位の高い人々には、キリスト教がよく解からないということがあるようです。どの社会にも、そのような人々はいるものですが、神様が一番喜ばれないのは、自分を高くする者です。聖書には「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」(ヤコブの手紙4・6)と記されています。
私達は色々な意味で弱さを感じるものですが、真の神様を信じる生活の中で、次第に変えられて、大変平安な心になってゆくのです。仮に貧しい生活を強いられたとしても、心は豊かなのです。病気に対しても、キリスト者には神様の大きな力が働くので、信仰によって多くの病もいやされてゆくのです。まことの神様を信じることにより、不思議な力が与えられ、霊肉共に強められ、不思議な力が与えられるのです。
あなたもぜひ信じてみて下さい。
(放送メッセージより)