神の御業を喜ぶ
万代恒雄
まず聖書を開いておきましょう。
詩篇111篇2節です。
「主のみわざは偉大で、みわざを喜ぶすべての人に尋ね求められる。」
みわざを喜ぶ人に尋ね求められる神様。神様を信じるということが素晴らしいことだということを知らない人はいないと思うのですが、具体的に信仰をもつというと、何か大儀な気持ちになる人がよくいます。でも考えてみてください。あなたも、毎日最低三回、あるいは二回はお食事をされるでしょう。日本人は、お風呂好きで、お風呂にもよく入って、体を清潔にしているし、自分の体のために、かなり神経を使っているのではないでしょうか。ビタミン剤や、今頃流行の栄養剤もずい分売れているようですし、自然食というのもありますし、別に悪い事ではないと思います。すべて自分の身体を守るためのものです。
では、心はどうなっているでしょうか。身体の内側に心があるわけで、私たちが嬉しいな、楽しいな、悲しいな、と感じるのは心で感じることが殆どです。お風呂に入れば、いいお湯だということで、身体が気持ちよくなります。しかし、私たちが幸せということを感じるとしたら、それは心で感じているのだと思います。だから、その心を整えるということが、私たちが幸せになる方法と思うのです。私たちの心を、まことの神様に整えていただいて、正しく清く守られ、導いていただく、ということ、そして神様を喜ぶ。そのような神様のなさることを喜ぶ生活をしている人々によって、神様の偉大な御業が尋ね求められる、というわけなのです。
空の星をじっと見上げ、銀河系の星を見て、「ああ、神様って素晴らしいお方だなあ。これを造られたのは神様だ。本当に素晴らしい。」と、喜べる心を持っている人は、人生の中に偉大な神の御業を探求し、追求して、自分のものにすることができるのです。
道端に咲いている小さな雑草の花を、腰をかがめて眺めて、「不思議だなあ、こんな美しい配色のお花をお造りになった。これは神さまの御業だ。」と、喜ぶような人の心に、神様は偉大な御業をなさってくださるのです。
自分についても、自分の心は汚い、何とかしなければならない、聖書にある神様は、私たちの心を清めてくださる、ありがたいことだ、心を清めていただこう、と思って神を信じるのです。そして、何とも言えない喜びがやってくるのです。そして神の御言葉である聖書を読むことが楽しくなり、教会に行くことが嬉しくなるのです。こんな神を喜ぶ人々のために、神の偉大な御業は備えられているのです。ただ困ったときの神頼みで、困ってどうしようもない時に、「神様、神様」と言う人に、神様は現われてくださるのではないということを私は言いたいのです。
イエス・キリストを信じて、感謝して与えられたいいのちを喜び、与えられた一日を感謝して、自分の回りにいるすべての人を喜んで、そして生かされていることに神の御手を感じるような人のために、神は奇蹟の業を行ってくださるのです。
奇蹟と言えば、私達人間にとっては奇蹟でありますが、神様にとっては当たり前のことであり、特別に奇蹟ではないのです。神様にとって当然のことが、私たち人間にとっては当たり前のことではなく、つまり、奇蹟なのです。
私たちは、その神を喜び、そして感謝する信仰と姿勢をもっている時に、奇蹟的なことが人生には起こるのです。
あなたは、そんな信仰の姿勢で神に向かって叫んだことがありますか。そして神様が、自分に語ってくださるということに確信をお持ちでしょうか。問題の中に陥ることもあるでしょう。しかしながら、神がその都度私たちの叫びにお答えをくださるということが素晴らしいではありませんか。神との対話のできる信仰、これをあなたもお持ちください。そうしたら、あなたの人生に、驚くべき祝福が訪れてくることでしょう。
(放送メッセージより)