罪の告白による幸い
万代恒雄
「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」(箴言28・13)
神様の御前に大切なことのひとつに、罪を告白するということがあります。今日のお言葉には、「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。」とあります。そむきの罪とは、神様に背を向けることであり、それはすなわち不信仰であります。私たちが不信仰であるならば、どんなに神様の恵みを求めても与えられるものではありません。恵みを求めるならば、私たちの心を整え、きよくしていただかなければならないのです。そのために、私たちは自分のそむきの罪、不信仰を神様の前に告白する必要があるのです。また、そむきの罪、不信仰はあらゆる罪の根であり、そこから汚れた心や、悪い行いが生じます。私たちは、そむきの罪とともに、心の汚れがあるならばその汚れを、犯してしまった罪、過ちがあるならば、その罪、過ちも告白しなければなりません。幸いなことは、私たちが罪を告白し、それを捨てるなら、あわれみを受けるとも聖書が約束していることです。信仰を持つことの素晴らしさは、絶えず神様の御前に自分のたましいを調整して、正しくならしめ、憐みに与ることができるということではないかと思うのです。
聖書には、有名な放蕩息子の話しがあります。息子が、さんざん好き勝手をして落ちぶれたあげくの果てに、父親のもとに帰って来て、「私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました」(ルカ15・18)と告白した時に、父親は彼のために祝宴を設けたのです。彼が帰って来た時、すでに父親は、彼をあわれんで、走り寄り、抱きしめ口づけし、赦しているのですが、その息子の告白によって、その赦しが明らかになります。
また、罪の告白は、神様の側に立つための大きな転機となります。罪を告白する時に、私達はこの世の側から、神様の側へ転換するのです。何と幸いではありませんか。罪を告白するならば、この世に属するものではなく、神様のものとされ、神様との交わりの中に生きる者とされるのです。ですから、イエス・キリストを信じる信仰においては、絶えず罪の告白ということが言われるのであります。あなたが今日もし、自分の人生に神様からの祝福をいっぱいいただいて、豊かな恵まれた人生を送りたいと願っておられるならば、あなたは自分の心の中にある様々な罪を、決して隠してはならないのです。
私達人間はどうかすると、自分の罪を隠すという傾向があります。人前ではいい恰好ばかり見せるというようなことがよくあります。しかし、神様の御前ではそんなことをしても無駄であります。神様は全てをご存じです。
自分の罪を告白して、神様の側に立つということを心から決心し、信仰による歩みをしようと決意を固めて、イエス・キリストのお顔を仰いでごらんなさい。必ず心に平安と喜びをいただくことができます。そればかりか、あなたの歩む道を神様が導いてくださるということを、現実に経験されることでしょう。あなたは祝福の人生に入ることができるのです。
「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第一ヨハネ1・9)と約束されているのです。
私の身代わりとなって、私達人間の罪を負ってくださったイエス様を信じ、心から感謝し、救いの恵みの人生を送らせていただこうではありませんか。
(放送メッセージより)