間違いのない判断

万代恒雄

 あなたは信仰についてどのような認識をお持ちでしょうか。このことについて考えてみたいと思います。

 詩篇119篇26節には、「私は私の道を申し上げました。すると、あなたは、私に答えてくださいました。どうか、あなたのおきてを私に教えてください。」とあります。何と単刀直入なことばでしょうか。

人は誰しも、自分の生きる道について、時として誰かに相談したくなるものです。しかし、誰かに相談したからと言って的確な答えが与えられるでしょうか。会社の経営者でも、サラリーマンであっても、あるいは家庭の主婦でも、未来を模索している若者であっても、自分のしようとしていることについて、それが正しいのか、それとも間違っているのか、自分で判断しかねることは、誰にでもあるはずで、全く迷いがないという人はひとりとしていないのです。

 さて、この聖書のみことばには、「あなたは私に答えてくださいました。」とあります。このみことばから、信仰とは一体何かということを探ってみた時に、それは、私たちの判断を正す力であると言えるでしょう。自分の力や人の意見によってではなく、神様の力によって、自分自身の判断を修正し、確かなものにする力、それが信仰なのです。信仰をこのような力であると解釈するときに、イエス・キリストに対する信仰を持っているということは、本当に素晴らしい喜びであると私は感じるのです。なぜなら、自分勝手な判断や人の意見という、不確かなものに左右されることがなくなり、確かな判断力を手に入れることができるからです。

 人は、自分の住んでいる環境や、生まれ育ってきた中での様々な経験、あるいは自分の身につけている教養、そうしたものから総合的に考えて、物事に対する判断をするわけです。しかし、私たちの経験することは一部分でしかありませんし、誰かの意見、それが信頼のおける人の意見を聞くにしても、その人もまた同じであって、私たちは実に狭い世界の中でしか生きていないのですから、誰であっても間違いのない判断をすることができなくて当然でしょう。

だから私たちは、自分の思いや考えを、天地宇宙を創造し、支配しておられるまことの神様に申し上げ、神様からの答え、神様のみことばによる判断を仰ぐ必要があるのです。私たちが、神のみことばによって小さな自分の人生のすべての問題の答えを導いていただこうとするならば、そこに間違いが起こるはずがないではありませんか。本当に信仰を持って生きている人たちの中には、実に賢明な道を選んでいる人がとても多いのです。

 何かしらわけのわからないものに頭を下げ、手を合わせることを信仰だと考えているとするなら、よく考えてみてください。それらはあなたに正しい判断を与えてくれるはずはありません。しかし、聡明なあなたが、本当に自分の判断に苦しむとき、あなたよりさらに聡明な神の知恵があなたの判断を正しく導く力として信仰を捉えるならば、信仰を持たなければならないと感じるのは、ごく自然なことではないでしょうか。

 あなたが心からイエス・キリストを信じ、間違いのない神様の判断を自分の人生に持って、正しく、確かな道を歩んでくださることを心から願ってやみません。 (放送メッセージより