聖書を開きましょう。
旧約聖書、詩篇96篇3節です。
「主の栄光を国々の中で語り告げよ。その奇しいわざを、すべての国民の中で。」
奇しいわざという題をつけてみました。
イエス・キリストを信じるということは、奇しい、不思議な奇蹟的なわざを、人生に経験することだというのです。それ故に、その素晴らしい神の栄光の現われを、国々の中で語り告げ、すべての国々の民の中で発表しなさい、賛美しなさい。と歌われているわけです。人間だけが、神から特別な交わりを許されているのだと、聖書は語っています。聖書によると、人間は神に似せて造られたというように言われています。それは、外見的な形という意味ではなくて、霊的なもの、内的に神に似せられているということです。ですから人間は、神に対して関係を持つ者とされていますし、その意味で人格的な交わりを持つことができるのです。
人間は、神の前に立って、神から問われ、そして自分で決断し、応答していくという事によって、真の人間としての価値を発見することが出来るのです。ですから、神様との交わりが許されているのは人間だけであると思う時、われらの人生に奇しいわざ、すなわち「神様でなければ、こんな事は出来ない」というような事が起こるのは当然だと考えられます。なぜなら、神との交わりを持つことを許されているのですから。神の影響力、神様でなければできないというような事が、あなたの人生の中で起こって当然ではありませんか。もしあなたが、本当の神との交わりを持つならばのことであります。
今、あなたが持っているさまざまな問題に対して、注意を向けてみましょう。人間、問題がないと言える人はいないわけで、人生には矛盾がいっぱいあります。人から見ると、「あの人は何の問題があるのだろう。あれほど幸いな人はいない。」などど、人々から言われている人が、案外心の中に不平や不満を持っていたりするわけです。これはどこにもあることでしょう。
「あんなにお金があれば何の心配もないだろう」、「良いご主人で幸せそう」等々、このように言われている人は、私たちの周りにいくらでもおられます。しかし、それでも人間は悩み深い者です。悩みというものは、その当人でなくてはわからないので、横から「ああだ」「こうだ」と勝手な評価をすることはかえって失礼だし、これはしてはならない事だと思います。
そういうような問題に対しては、神様みより解決していただくことが一番妥当なことだと考えます。
社会福祉とか社会救済とか言葉があります。そして実際にそれなりの助けも出ていることであります。しかし、人目から見て、どうしても助けてあげなくてはいけないというような存在の人には、様々な具体的な方法での助けがあります。しかし、不安や問題もないように見える人、そのような人達にも、色々の問題がやってきます。悩みや問題も押し寄せて来るし、病気にも苦しまされるでしょう。そのような人々を助けることができるのは、神様だけと言えるでしょう。
「イエスは言われた。“人にはできないことが、神にはできるのです。”(ルカ18・27)
人にはどうすることもできない悩みを奇しい神のわざによって、救っていただこうではありませんか。
イエス・キリストを信じて、救いの恵みに浴する者としていただこうではありませんか。
(放送メッセージより)
奇しいわざ 落穂第615号第一面(2017年8月号)
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