すべての者が神の救いを見る

                                   リバイバルミッション顧問 有賀喜一

■主の命令

ルカによる福音書3:4-6をお読みします。

神様の御心は明白であります。6節に「全てのものが神の救いを見る」と書いてあります。(ヨハネ3:16、第二テモテ4:16)世の中が何と言おうと、周りがなんと言おうと、キリスト教界の人がなんと言おうと、神はあらゆる人々が神の救いを見るようになると決心しておられます。皆さんも神様と同じ心で、全ての人が神の国を見るようになるようにしようと思いませんか。

 そのために3つのことが勧められています。第一番目は「命令」であります。4節に「主の道を用意せよ」とあります。これは命令です。第二番目に4つのことが「条件」として上げられています。「すべての谷は埋められる、すべての山と丘は低くなる、曲がったところはまっすぐになる、でこぼこ道は平らになる」そして「結果」として「すべての者が神の救いを見る」ということにつながると言っています。

■母の救い

 私は禅宗の門徒の家に生まれ、一四歳の時に救われましたが、一四年間すばらしい聖書の教えを全く知らなかったでは済まない、もっと知りたいと思い、頻繁に教会に行き、先生に質問をして煩わせました。

 そういう中で私は迫害を受けました。水曜日の夜と日曜日の夜の集会にも行きました。すると家族が、夜は家に鍵をかけて入れてくれないのです。入れてくれといっても教会を辞めるなら入れてやるというのでした。仕方がないので私は実家を出るまで七年間、水曜日と日曜日の夜はいつも庭にあるうさぎ小屋で寝ていました。そして救われて七年後私は将来牧師になると神戸の神学校に行きました。親は私に「勘当だ、二度と家の敷居は跨ぐな」と言いました。

 神学校での忙しさにまぎれて私は家族の救いのためにはあまり祈っていませんでした。しかし翌年のイースターに母親から私の元にはがきが届きました。なんと母は洗礼を受けた、いつでも帰っておいでと書いてあるではないですか。驚きました!

 いきさつを聞くと、隣の病気がちな奥さんが、私が神学校に行ってから病気になり、母は一生懸命介抱したそうです。でも奥さんはいよいよ最期の時にご主人にしがみつきながら「暗い所に落とされる、恐ろしい助けて!」と言いながら逝ったということでした。母はそれを見て、自分は神学校に行くという息子を勘当するくらい仏教に拘っているのに、その奥さんを助けることはできなかった。自分は仏教を信じているようで一体何を持っているのか。もしかすると息子が信じるキリスト教こそ本物ではないのかと思ったそうです。

 そこで母は近くの私の通っていた教会に行ってみることにしました。神様の働きでしょう。幸いなことに、その日は滝元明牧師がメッセージをしていました。母はその一回のメッセージを聞いてすぐにはっきり救われたのでした。そして洗礼を受けて私に知らせてきたのでした。

 そしてそれをきっかけに、父や兄や姉たちも私の結婚した日に救われ、有賀家と妻の実家の和田家の親族約一〇〇人中、七六人までクリスチャンになったのです。「主イエスを信じなさい、そうすればあなたもあなたの家族も救われる」という聖書の言葉は本当です。

ここでいう家族という言葉はギリシア語で「オイコス」といいます。オイコスには家族という意味の他に、親族、そして近い知人、友人という意味があります。日本の人は家族、親族、知人、友人でだいたい七五人くらいのオイコスを持っていると思います。では七五倍くらいが計算できる数であり、神様の計画なのでしょうか。

 アハブとイゼベルにエリヤが対決した時に、エリヤはたった一人でバアルの預言者と対決したと思っていました。しかし神様はその後エリヤに「バアルに膝をかがめない者は七〇〇〇人いる」とおっしゃいました。神の計算、計画は私達の計算、計画の七〇〇〇倍なのです。

■主の道となる

 私は信仰を持った最初は家族と対決しすぎました。仏壇を壊せ、神棚を壊せ「そのままだと地獄行きだ」などと言っていました。すると親が私に「誰がここまで育てたと思っているんだ、そこまで言うなら地獄にいってやる!」と言ったのでした。

 そこで私はこのやり方は間違っていたと気づきました。私は一切キリスト教のことは言わなくなりました。そして誰よりも早起きして、学校に行く前に家の周りを掃除し、廊下を履いて掃除し、井戸でバケツ三〇杯の水を組んで来て満たして行ってきますと出掛けるようにしました。そして家の柱に御札のように御言葉を書いて貼っておきました。

 その結果、お坊さんが両親に「お宅の息子さんは奇特だ。お墓にきていつもお掃除をしてお花を供えている感心だ」と言いました。私はそういうことを行っていました。それから父親はわかってきたのでした。クリスチャンは「世の光」「地の塩」となるべきなのです。イエス様がマグダラのマリアやザアカイのような罪人に対して、直接言葉をかけて罪を赦されたように、イエス様は私達に対して神様を見せる道となられたのです。

 今は、そのイエス様を目で見ることはできません。だからその代わりに、あなたが主の道となるのです。これが命令です。これは気分がよかったらということではなく、良くても悪くても私達が神様の命令に従い、あなたが主を見せる、イエス様を見せる、愛を見せる、救いを見せる道になりなさいと言っているのです。

■谷は埋められる

主の道となるために条件は4つあります。第一は「谷は埋められる」です。谷とは裂け目です。私達と神様との間に裂け目があります。また人と人との間にも裂け目があります。私達自身の中にも、キリスト教界の中にもあります。この裂け目を埋めて行かなければならないのです。

神様はあなたに敗北しているところ沈没しているところはありませんかといっておられるのです。私は聖書を毎日二一章読むことにしています。そうすると一年に七回聖書を通読することができる。今までに八〇〇回以上聖書を読んでいます。

私はある時祈りの重さを実感しました。私が養子に迎えた息子が五歳の時に、自転車で転んで肘を複雑骨折しました。その治療の時お医者さんでレントゲンをとると骨が変な向きにくっついているから翌日手術をしなければならないと言われたのでした。

私は徹夜祈祷で祈りました。その時詩篇九一篇の「全能者の陰」という御言葉が来ました。これは神様の御手の業だと確信がきました。そして翌日お医者さんは手術のために、自分の大学の指導教官の老先生も呼んでいました。老先生に意見を聞くために昨日撮ったレントゲンを見せようとしたところ、どこにもレントゲンが見当たりません。そこで改めてレントゲンを撮ることになりました。

そして撮り直したレントゲンをお医者さん達が見てなんと、「このレントゲンを見ると、きちんと治っている、曲がってないよ」というではないですか。先輩のお医者さんは「君は昔から人よりも粘るところがあるから」と言って何もせずに帰っていかれました。担当のお医者さんは「有賀さん、昨日は曲がっていましたよね。今日はまっすぐになっている」と首をひねっていました。これこそ「全能者の陰」です。単なる偶然ではありません。どんな現実があっても私達は全能者の陰の中にいるのです。

また私は阪神淡路大震災の時に自宅が神戸市の須磨区にありました。大きな被害があった長田区の隣です。私は震災の時沖縄に出張していてテレビでニュースを知りました。家に何度電話してもかかりませんでしたが、翌日電話ができました。結果的には家族は全員無事でした。その上近所はめちゃくちゃだったのに、我が家は瓦一枚落ちませんでした、壁にヒビ一つ入りませんでした。私は有賀担当の御使いはひとりじゃない一万人を超える御使いがいると思いました。これが「全能者の陰」です。私達は敗北の谷を埋めましょう。

■山は平らにする

 山は不信仰のことを現わしているのです。あーダメだなと思うことがある。でもそれは人間のものの見方です。神様の視点で見ることをしなければなりません。神様の力であたるならば、人にはできないことも神にはできるのです。その信仰を持たなくてはなりません。私はある夏、二ヶ月間ヘブル人への手紙を読み続けて、九〇回以上読んだ時に、イエス様についての新しい目が開かれたんです。4つのイエス様の姿です。詳しいことは、私の“へブル人への手紙講解”を読んでいただければと思ますが、このイエス様を信じなければならないのです。イエス様ほど信じがいのある御方はおられません。イエス様を信じるのです。信じるというのは手放す、放り出すということです。子どもが父親の胸に「パパ」と飛び込む時、その子どもは必ず父親が受け止めてくれることを信じて、自分を放り出しているんですよね。信仰とはそのようなものなのです。

信仰とは掴もうとすることではなく、手放すことです。私はできません、イエス様!あなたがどうぞと。そうすればイエス様が乗り出さざるを得なくなりますね。

■曲がった道をまっすぐにする

曲がった道とは不正直なことです。クリスチャンはしばしば賛美歌を歌うけど本当にはそう思っていません。日曜日の礼拝では信じますといいながら、月曜から土曜までは信じていない。

 クリスチャンでも心の中に私心や情欲があります。ローマ書の6章7章では、私達はしてはならないことをしてしまうと記しています。しかしそこでローマ書の8章があるんです。8章には聖霊が罪と死から私達を助け出してくださると書いてあります。

 皆さんの霊性がこの2021年のこの聖会をきっかけに、明確にキリストを選んで神を選んで肉や情欲、自己中心、全てこの世のすべてを去れといい、自分が死んでキリストが生きるようになることを祈ります。

 私は1956年6月6日に聖霊のバプテスマを受けました。この時にはっきりと己に死んで、情欲に死んで、この世に死んで、キリスト百パーセントで生きて生かしてくださいと決断したその日です。だからといって完全になったとは言えません。しかしその後、常に聖霊充満に導かれているのです。不正直を一切取り除いて、まことに神様からの知恵と力に満たされる者になりましょう。

■でこぼこ道を平らにする

 でこぼこ道とはアンバランスです。私達のアンバランスの道の均衡をとる、すなわち何を第一としていくか、私達の信仰生活の中でそれが整然とされていく必要があるということです。「まず神の国と神の義を求めよ」神様が嫌いだということは私も嫌いです、神様がいいというは私も喜びますとはっきりしてください。

 「神様喜びますか、神様いいですか」と神様に聞いてみてください。「神様満足されますか」と聞いて「しない」というなら私もしません。何も難しい判断じゃないんですよ。神様が喜ばれることを喜ぶ単純な生活、そこで優先することが決められていくんです。

ある教会で私は聖霊の賜物の話をしました。分け与える献金の賜物があるかないか試すには、礼拝の席上献金の時に一万円札を献金としてささげてみてください。その後寒気がしてあんなことをしなければ良かったと感じる方は献金の賜物はないんですと言いました。

数ヶ月すぎてその教会には不思議なことが起こりました。礼拝の献金で一万円札がたくさん入るようになったのです。皆さんも賜物があるかどうか次の日曜日におためしください。これは明確ですよ。

■すべての者が神の救いを見る

 この4つのことを果たすと全てのものが神の救いを見るのです。何がおきるのか、それは第一に全てと書いてあるとおり無限の祝福です。私達は人を見ると、この人は救われるのは難しいなどと決めてしまうのですが、神様にとってみれば無制限です。

 第二番目に「見る」ということです。見たならば誤解がないですよね。この4つのことを果たすことによって、私達は救いを見せるものになるのです。第三番目に「神の救い」です。

 ある教会で、魚屋さんが日中トラクトを配る伝道をしていました。魚屋さんはとある新興住宅地でまだ入居していない新築の一戸建てのポストにトラクトを入れました。その時、玄関周りのタイル張りの作業をしていた左官屋さんが、そのトラクトに気づいて読み、興味を持ったのでした。裏返してみるとトラクトに書いてあった住所はちょうど自分の家の裏だったので、そんな近くに教会があったのかと驚きました。そして行ってみようという気になったのでした。

 左官屋さんは教会に行きイエスキリストが大工だったという話を聞いて、同業だと思って親しみを持ち教会に通うようになりました。左官屋さんが喜びに満たされて賛美歌を歌いながら楽しく仕事をしていると、現場にいた大工さんが興味を持ちました。

 そして大工さんも左官屋さんと教会に行くようになりました。大工さんと左官屋さんが賛美歌を歌いながら作業していると今度はトタン屋さんが興味を持ちというように、その建築関係のグループが集まってクリスマスには9人が洗礼を受けたのです。神様は思いがけない救いを用意してくださっているのです。私達が神様を制限する必要がありません。  

日本人の救いは日本人の手で実現させようではないでしょうか。神は必ずなしとげてくださる。神は驚くべき奇跡をなしてくださることを信じて前進しようではありませんか。

(第27回全国聖会・第1聖会メッセージ)