御手の中に

万代恒雄

まず今日も聖書を開きましょう。旧約聖書、詩篇31篇15節です。
「私の時は、御手の中にあります。私を敵の手から、また追い迫る者の手から、救い出してください。」

私の時、時間、つまり自分の人生をというように解釈しましょう。つまり、私の人生は、神様あなたの手の中にあります、ということです。人生というものは、一分、一秒の積み重ねでありますから、その一時一時が神様の手の中にあることを、この詩篇の作者は自覚したのでしょう。だから「私を、私の敵から、つまり追い迫る者の手から救い出してください」と、祈ったのです。この祈りは、素晴らしい祈りだと思います。なぜならば、人生にはいろいろなことが起こり得るからです。誰であってもラッキーなことを主体的に求めるのは当然のことです。しかし、時には、身体が弱る時があり、心くじける時もあります。いろいろ辛い時があるわけです。

では、辛い時も良い時もひっくるめて全てが、神様の手の中にあるというように考えたらどうなると思いますか。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8章28節)と聖書にあります。

これは新約聖書のみことばですが、大変確信のあるものです。つまり、神様を愛して神の御手の中に召される、と言いますか、神様に捕えられるとでもいいましょうか、そういう者には、人生で起こるあらゆる出来事すべてのことが合働くというのです。つまり縦糸と横糸で織られた布のように、お互いがピシッと混ざり合わさって、神さまのご計画にあうように、良いようになってゆくというのです。

ですから、人生を断片的に見ないで欲しいのです。今、絶望的で死にそうな状況にあるから駄目などと言ってはいけないのです。人生はまだ終わってはいないのです。野球でも、最終回のとどのつまりに逆転ホームランというようなことがあるのですから。

ご利益を追求するような形の信仰の意識にはならないように、と私は言いたいのです。なぜなら、それは、困ったときの神頼みであって、人生で、困った時に「神様」と助けを求めているわけで、それではいけないのです。病気の場合もそうですが、頭が痛いから頭痛薬、胃が痛いから胃薬を飲むというような、対処療法でその時々だけの治療をしているのでは、根本的に治らないのですから、身体全体を総合的に考えて、病を癒していかなくてはならないのは常識だと思います。

人生も、すべてが神様の御手の中にあり、初めから終わりまで、良いも悪いもすべてあるのだと、このように考え方をはっきりすることができるならば、少々の事があっても別に顔色を変えてうろうろする必要は全くないのです。神様が私の人生を支配してくださっているのですから。神さまは、善であられるお方ですから、私達を悪いようには決してされない、ということを信じることができるのです。

しかし、そう信じるために根本的に必要なのは、まず、神は私の救い主であると信じることです。

あなたも今日から、イエス・キリストをご自身の救い主と信じて、救いの恵みにあずかるものとなってください。

(放送メッセージより)